『無限の始まり』第5章「抽象概念とは何か」
抽象とは何か、と質問されて、うまく答えられる人は少ないと思います。そもそも抽象という概念自体が抽象的です。第5章「抽象概念とは何か」(原題:抽象化の真実)では物理学者が自然法則を発見してきたプロセスや、ホフスタッターの「ドミノ計算機」の思考実験の例を見ながら、この厄介で面白い、「抽象」の意味に迫ります。
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- 創発性とは何か
- 還元主義は間違いだ
- 科学の発見のメカニズムと創発性の関係
- 抽象概念は実際に物理的対象に影響を与えている
- 抽象概念とコンピューターと脳
- 道徳と真実の関係
- 哲学においても還元主義は空虚だ
- 抽象概念の諸側面
- 用語解説
創発性とは何か
日常の出来事は、基本物理学の観点から表すには途方もなく複雑なものです。たとえば、やかんに水を入れて火にかけたとします。そのやかんの中の水分子のすべての振る舞いを予測する方程式は、地球上のあらゆるスーパーコンピューターを宇宙の年齢と同じ期間だけ稼働させても、解くことができません。しかし幸い、こうした複雑さの一部分は、高レベルの単純さに形を変えます。たとえば、私たちは、水が沸騰するのにかかる時間をかなり正確に予測できます。その予測のためには、水の体積や熱源の出力といった、非常に簡単に測定できる物理量がいくつかわかればよいのです。さらに正確に予測するには、気泡の核形成が起こる場所の数や種類といった、より細かな性質を知る必要もあるかもしれません。しかし、そうした核形成などもやはり比較的「高レベルの」現象です。このように、水の流動性や、容器、熱源、沸騰や泡の関係を含めた、高レベルの現象のグループは、互いの関係の観点だけでうまく説明することができ、素粒子や原子レベルやそれより低いレベルのものを直接考える必要はありません。別の言い方をすれば、高レベルの現象全体の振る舞いは準自律的であり、ほとんど自己完結的だと言えます。
還元主義は間違いだ
科学が還元的に説明する場合も多いです。「原子間に働く引力はエネルギー保存の法則に従う」という事実を使うことによって、「熱の供給がなければやかんの水が沸騰しない」という高レベルの予測を行い、その予測を説明する場合などがそうです。しかし、還元主義では、レベルが異なる説明のあいだにいつでもそのような関係があることを求めていますが、多くの場合はそうなってはいません。前著『世界の究極理論は存在するか』では次のように書きました。
たとえば、ロンドンの議会広場に立っているサー・ウィンストン・チャーチルの像の鼻先にある特定の銅原子を考え、なぜその銅原子がそこにあるのか説明してみよう。それはチャーチルがその近くにある議会で首相を務めていたからである。そして彼のアイデアとリーダーシップが第二次世界大戦における連合軍の勝利に貢献したからであり、こうした人々を讃えるためにその像を建てる習わしがあるからだ。そして、その像の材料には銅を含む青銅が伝統的に使われるからだ。こうしてわれわれは、低レベルの物理的観察—ある特定の場所に銅原子が存在すること—を、アイデア、リーダーシップ、戦争、伝統のような、創発的な現象に関する極度に高レベルの理論を通して説明しようとする。
私がたった今示したもの以外に、その銅原子の存在を説明する低レベルの説明が、たとえ原理上にせよ、存在するはずだと考えなければならない理由はない。おそらく、還元主義的な「万物の理論」は、(たとえば)以前のある時点における太陽系の何らかの条件が与えられた場合、こうした銅像が存在する確率を原理上、低レベルで予測するだろう。しかし、こうした記述と予測(言うまでもなく不可能に近いことだが)は、何も予測しない。(…)こうした予測は、何よりもまず、たとえば第二次世界大戦とわれわれが呼んでいる複雑な運動に加わった、この惑星上のすべての原子にも言及しなければならないだろう。(…)あなたはその原子の配置とそれらの軌跡の何が、銅原子をこの場所に置く傾向をもたらしたのかを探求しなければならない。(…)
熱力学第二法則が導かれると考えなければならない理由はありません。還元主義にはしばしば道徳的な含みがあります。(つまり「科学は基本的に還元的であるべきだ」ということ)。このことは、私が第1章と第3章で批判した、道具主義と平凡の原理の両方に関係しています。
科学の発見のメカニズムと創発性の関係
いずれにしても、創発的現象は世界の説明可能性にとってきわめて重要です。人間は、昔から経験則を使って自然をコントロールすることができました。経験則による説明が対象としていたのは、火や岩といった創発的現象に存在する高レベルの規則性でした。さらにはるか以前には、経験則をコード化しているのは遺伝子だけでしたが、そのなかの知識もやはり創発的現象についてのものでした。したがって、
連続的に登場する科学的説明が、その予測を説明する方法では異なっていることがあります。予測自体が似ていたり、全く同一であるような領域でもそれはありえます。たとえば、アインシュタイン(Albert Einstein,1879-1955)による惑星の運動の説明は、ニュートン(Isaac Newton,1642-1727)による説明を単に修正するだけではありません。それはニュートンの説明の中心をなす重力や一様にすすむ時間といった要素を否定しています。同じように、ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler,1571-1630)の理論では、惑星は楕円軌道上を動くとされていますが、これは単に天球説を修正しただけでなく、天球の存在自体を否定しています。さらにニュートンの説明は、ケプラーが考えた楕円軌道の代わりに別の形状を用いているのではありません。ニュートンが物理法則に持ち込んだのは、瞬間速度や加速度といった微小区間で定義される量によって、物体の運動を規定する方法でした。つまり、こうした惑星運動の理論は、どれもそれ以前の理論が用いていた惑星の運動を説明するための基本的な手段を無視したり、否定したりしたのです。
このことは、道具主義を支持する説として、以下のように用いられてきました。
連続的に登場する理論のそれぞれは、前の理論による予測に小さいながらも正確な修正を行うことから、その意味では前の理論より良い理論だと言える。しかしそれぞれの理論の説明は以前の理論の説明を一掃してしまうことを考えると、以前の理論の説明はそもそも正しくなかったことになる。そうなると、連続して登場するそうした説明が、実在についての知識を成長させていると見なすことはできない。ケプラーの理論では、軌道を説明するのに力は必要なかった。ニュートンの理論では、逆二乗則で表す力であらゆる軌道を説明している。そしてアインシュタインの説明では再び、力は必要とされなくなっている。では、ニュートンの「重力」は(その効果を予測したニュートンの方程式は別として)、どうして人間の知識の前進となり得たのだろうか?
重力が人間の知識を前進させることが可能であり、実際にそうしたのは、理論が説明を行う際に介在する実体を一掃することと、その説明全体を一掃することは同じではないからです。
アインシュタインの理論は、ニュートンによる逆二乗法則や重力の法則などの性質のすべてを支持しただけでなく、そのようになる説明も行っています。ニュートンの理論もそれ以前の理論より正確な予測を行えましたが、それは、実際に起こっている出来事について、以前の理論よりも正しかったからに他なりません。
ところで、一連の惑星運動理論から得られる予測は、どれも似ていたというのは誤解です。ニュートンの予測は、橋渡しという意味では優れていますし、GPSを稼働させるうえでは多少不十分という程度ですが、パルサーやクエーサー、あるいは宇宙全体を説明するとなると、どうしようもないほど間違っています。そうした天体物理学現象すべてを正しく理解するには、アインシュタインによるまったく異なる説明が必要です。
理論に自らの生をかけることなしにそれを批判するというその能力には、もう一つ、より重要な長所があります。
抽象概念は実際に物理的対象に影響を与えている
第4章では、知識はそれぞれが自らの複製のために生物や脳を「使う」(したがって、それらに「影響を与える」)抽象的な自己複製子だと述べました。それは、今まで述べてきた創発的レベルの説明よりも高レベルの説明です。
コンピューター科学者のダグラス・ホフスタッター(Douglas Richard Hofstadter,1942-)は、著書『わたしは不思議の環』で、無数のドミノでできた専用コンピューターを想像しています。一定時間後にバネで起き上がるドミノを多数用意し、ループや分岐、合流のあるネットワークの形に配置します。うまく設計すれば、ドミノの列を伝わるシグナルで、任意の計算を組み立てられます。ホフスタッターの思考実験では任意の数が素数かそうでないかを計算するためのプログラムを想定しています。あるドミノが、入力値の約数が見つかった時だけ倒れるのです。
素数である641を入力し、ドミノの運動が始まります。このドミノ・ネットワークの目的を知らない観察者がドミノの動きを見て、ある特定のドミノはずっと立った状態のままで、どんなドミノにも決して影響されないことに偶然気がつきます。その観察者はそのドミノを指さして、「どうしてあのドミノは決して倒れないのか」と不思議そうに尋ねます。それに対する一つ目の種類の答えは、「そんなの、その前にあるドミノが決して倒れないからに決まっているじゃないか」というものです。 確かに、その答えは今のところ正しいのですが、ずっと正しいとは言えません。それは別のドミノに責任を転嫁しているだけです。数え切れないほど何度も責任を転嫁していけば、最終的には最初のドミノに到達します。
その時点での還元主義的な説明は、「そのドミノが倒れなかったのは、最初のドミノを倒すことで始まる動きのパターンのどれにも、そのドミノが含まれていないからだ」ということになります。しかし、それは既にわかっています。面倒なプロセスを踏まなくても同じ結論には到達できるのです。そしてこのことが正しいのは間違いありません。しかしそれは私たちが探していた説明ではありません。なぜなら、その説明が取り組んでいるのは「出力のドミノは倒れるだろうか」という予測の問題だからです。そしてそれは間違った創発性レベルで質問しています。私たちが答えを探しているのは、「なぜそのドミノは倒れないのか」という問題です。
適切な創発性レベルにある、異なった方法の説明は次のようなものです。「641が素数だから」
この説明は、先ほどの答えと同じように正しく、物理的なことについてはまったく述べていないという興味深い性質があります。焦点が集団的性質へと上昇しただけではありません。こうした性質は何らかの形で物理的なものを超越し、素数性などの純粋な抽象概念と関連するようになります。
なお、ホフスタッターは「素数性が、特定のドミノが倒れない理由に対するもしかすると唯一の説明かもしれない」と述べますが、この点は修正が必要です。物理にもとづく説明も同様に正しいです。ホフスタッターは残念ながら還元主義を受け入れてしまっています。ホフスタッターは、著書を通じて、心は身体に影響するのか、といういわゆる「心身問題」を扱っています。ホフスタッターは最終的に、哲学者のダニエル・デネット(Daniel Dennett,1942-)の説に従い、「私」は幻想であるという結論に至っています。この結論によれば、「物体を好きなように動かす」ことができないのは、「(その)振る舞いを決めるには物理法則のみで十分」だからです。ここから、ホフスタッターによる還元主義が出てきます。
しかし、物理法則も何かを動かすことはできません。説明し、予測するだけです。また、物理法則は私たちにとっての唯一の説明でもありません。「641が素数だから」という説明は、ことのほか良い説明であり、物理法則と矛盾しませんし、純粋な物理法則の観点よりも多くのことを説明します。
「原因」というアイデア自体、創発的で抽象的です。哲学者のデイヴィッド・ヒューム(David Hume,1711-1776)が指摘したように、私たちは因果関係を認識することはできません。認識できるのは、出来事の連続だけです。さらに、運動の法則は情報を失うことがなく「保守的」です。すなわち、
抽象概念とコンピューターと脳
創発的な物理量についての理論を用いて、やかんの水の振る舞いを説明する場合には、現実の物理システムの近似として、ある抽象概念(理想化されたやかんのモデル)を使っています。しかし、コンピューターを使って素数を調べる場合には、その逆の作業を行います。つまり、物理的なコンピューターを、素数を完璧にモデル化する抽象的なコンピューターの近似として使っているのです。現実のコンピューターと違い、抽象的なコンピューターは間違うことはありませんし、メンテナンスも必要ありません。そしてプログラムを実行するためのメモリと時間が無限にあります。
抽象概念についての知識がどこからもたらされるのかという問題は、謎めいた話ではありません。他のあらゆる知識と同じように、推量がスタートであり、批判と、良い説明の追求を経由してもたらされます。科学の範囲外にある知識は手に入れられないという考えが妥当なように思えるのは、ひとえに経験論のせいです。そうした知識が科学理論よりも「正当化されていない」ように思えるのは、「正当化された真なる信念」という誤解のせいにすぎません。
道徳と真実の関係
「"〜である"」という命題から"事実"に関する理論を導くことは科学の役割ではありません。科学の知識の成長は、良い説明を見出すことから構成されており、ある人の信念を正当化する方法からは構成されていません。また、事実に関する証拠と道徳的な格言は論理的に独立していますが、事実の説明と道徳の説明は独立ではありません。したがって、
たとえば、19世紀に、アメリカの奴隷がベストセラーの本を書いたとしても、その出来事によって「黒人は神の摂理によって奴隷となるよう意図されている」という命題が論理的に除外されることはないでしょう。経験によってその命題を除外できないのは、その命題が一つの哲学理論だからです。しかしその出来事は、多くの人がその命題を理解するうえで用いており、必要だった説明を破綻させる可能性があります。そして結果的にそういった人々は、以前に受け入れていた説明に疑問を抱いたかもしれません。
逆に、
こうしたつながりは驚くようなことではありません。
哲学においても還元主義は空虚だ
道徳哲学における基本的な考えは、次に何をすべきか、ということです。もっと一般的に言うならば、どのような人生を送るべきか、そしてどのような世界であってほしいか、ということです。もしあなたが突然、地球上で最後の人間になったら、どんな人生にしたいのかと悩むことでしょう。「何でもいいから、私の気に入ることをすべきだ」と決めたとしても、そこからヒントはほとんど得られません。なぜなら、あなたの気に入ることというのは、良い人生とは何かというあなたの道徳的判断に左右されるのであり、その逆ではないからです。
次に何をすべきかという問題は避けることはできません。さらに、善悪の区別は、こうした問題に対する最善の説明に現れるものなので、私たちはそうした善悪の区別を現実のものと見なす必要があります。別の言い方をすれば、善悪の間には、客観的な違いが存在します。
抽象概念の諸側面
物理的対象の「影響を受ける」とは、その物理的対象に関する何かが、物理法則を通じて、変化を引き起こしたという意味です。しかし因果関係と物理法則のどちらも、それ自体は物理的対象ではありません。それらは抽象概念であり、そうした抽象概念についての私たちの知識は、他のすべての抽象概念と同じく、私たちの最善の説明がそれらを引き合いに出しているという事実から生まれるのです。進歩は説明に依存します。したがって、世界を、説明できない規則性がある一連の出来事にすぎないとみなそうとすることは、進歩をあきらめることになります。
こういった、抽象概念が現実に存在するという主張からは、それがどのようなものとして存在するのか、たとえば、どの抽象概念がほかの抽象概念の単なる創発的側面であり、どの抽象概念がほかの抽象概念とは独立に存在するのかといったことはわかりません。物理法則が異なっている場合にも、道徳法則は変わらないのでしょうか。物理法則が異なる場合の道徳法則において、権威に対しむやみに服従することが、知識を一番うまく得られる方法だとしているなら、科学者は進歩するために、私たちが科学的探求の価値だと考えるものを回避しなければならなくなるでしょう。道徳はそれより自律的だというのが私の推測です。よって、
用語解説
創発性レベル(Levels of emergence):現象のうち、それを構成する実体(原子など)に分解せずに、現象どうしの視点からうまく説明できるもの
自然数(Natural number):1、2、3のような整数。
還元主義(Redictionism):科学はいつでも、構成要素に分解することで、物事を説明しなければならない、あるいはそうすべきである(したがって高レベルの説明は基本的ではない)という誤解。
全体論(Holism):重要な説明はすべて、全体の観点からみれば構成要素であり、その逆ではないとする誤解。
道徳哲学(Moral philosophy):どんな人生を送るべきかという問題に対処するもの。
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書評
自分がこの章を初めて読んだときには、たまげました。還元主義や功利主義による説明は無機的な冷たさがある、程度のイメージしか持っていなかったのですが、それが必ずしも説明として良いとは限らないという主張は非常に腑に落ちますし、霧が晴れたような気持ちになります。哲学というのは、ドイチュから入れば余計な勉強を省けると思います。
ホフスタッターの代表作『ゲーデル・エッシャー・バッハ』(白揚社)は、前著『世界の究極理論は存在するか』で「あらゆる人の必読書」として参考文献に挙がっています(ごめんなさい、読めていません)。デネットのクオリアの否定論へのドイチュの反論は第7章でさらに強化されます。
それにしても、繰り返しになりますが、あらゆる創発性レベルが最善の説明になり得るという説明は、非常に勇気づけられるものです。この発想は経済学などの社会科学分野でも有用でしょう。たとえばお金というものは創発的な現象だと考えるべきですが、その概念を所与とした議論も有効です。ランボルギーニとプリウスは実用性に分解して考えると、機能として大して変わらない(あるいはプリウスの方が便利である)のに、値段が大きく違います。イメージや文脈という別の創発性レベルでの説明があるのです。そうした文脈では、凹みなどの傷は意味を持ちます。逆に、「傷がついた、言い換えればエントロピーを高めたことが価値を下げた、つまりエントロピーこそが価値だ」という要素還元的な説明では、そもそもランボルギーニとプリウスの値段の違いを説明できないはずです。
近年の「デザイン」をめぐる議論の混乱も、本章での整理を踏まえればかなり交通整理されると思います。人間の社会システムにはさまざまな創発性レベルがあります。デザインとは、そういったさまざまな創発性レベルにおける問題解決です。人間の周辺に問題があることが多いため、デザインは人間を中心としたものだという考え方が生まれましたが、より正確には道徳は物理法則と無関係ではないというドイチュの主張から裏付けられる話だと思います。かつてデザインというのは物理的な製品にのみ適用される用語でした。現在では企業活動や人の生活のあらゆる創発性レベルで適用される用語になっています。つまり、社会はますます多数の創発性レベルで問題解決が図られるようになってきているということです。過去に問題が解決されたことで、現在は「より良い」問題に取り組めているとも言えます。
ドミノの例を読んで自分の脳裏をよぎったのは、マリオメーカー計算機(とマインクラフト計算機)でした。
ドミノでの計算機よりもさらに理解の難しい構造をしていますが…。
参照
システム思考については木村英紀氏の整理が良いと思います。
・木村英紀『世界を動かす技術思考 要素からシステムへ』,(ブルーバックス,2015)
デザインの定義については、内藤廣氏のものが素晴らしいと思います。
「デザインとは、エンジニアリングと人の心を、工学と人文を繋ぐもの、異なるテリトリーを翻訳して繋ぎ合わせるものです。」(p42)
「デザインとはその問題だけを解決することではありません。現れてくる問題を予測し、拡大していく領域の壁をどうやって乗り超えられるかだと思っています。領域の壁をまたぐための力、というふうにデザインを定義してもいいかも知れない。」(p33)
IDEO社のメンバーは、非常に大きな社会問題を解決する方法としてデザインを使うことを宣言しています。
・ティム・ブラウン著,千葉俊生訳,『デザイン思考が世界を変える〔アップデート版〕』(早川書房,2019)
「今日の私たちが直面する難問は、あらゆる方向に広がっているが、この10年間のIDEOの活動を通して見ると、その中でもとりわけ緊急性が高く、なおかつデザインが有望な道筋を描きはじめている分野がいくつか見えてくる。まとめると次のようになるだろう。
① 時代遅れになった社会システムのデザイン
② 参加型民主主義の復興
③ 脱自動車時代の都市のデザイン
④ 人間に優しい人工知能、スマート・マシン、ビッグ・データのデザイン
⑥ 線形経済から循環経済への転換」(p.297)