現代啓蒙

気になる現代啓蒙思想をまとめます

『無限の始まり』第5章「抽象概念とは何か」

『無限の始まり』全体目次 第1章「説明のリーチ」(The Reach of Explanations)
第2章「実在に近づく」(Closer to Reality)
第3章「われわれは口火だ」(The Spark)
第4章「進化と創造」(Creation)
第5章「抽象概念とは何か」(The Reality of Abstractions)
第6章「普遍性への飛躍」(The Jump to Universality)
第7章「人工創造力」(Artificial Creativity)
第8章「無限を望む窓」(A Window in Infinity)
第9章「楽観主義(悲観主義の終焉)」(Optimism)
第10章「ソクラテスの見た夢」(A Dream of Socrates)
第11章「多宇宙」(The Multiverse)
第12章「悪い哲学、悪い科学」(A Physicist's History of Bad Philosophy)
第13章「選択と意思決定」(Choices)
第14章「花はなぜ美しいのか」(Why are Flowers Beautiful?)
第15章「文化の進化」(The Evolution of Culture)
第16章「創造力の進化」(The Evolution of Creativity)
第17章「持続不可能(「見せかけの持続可能性」の拒否)」(Unsustainable)
第18章「始まり」(The Beginning)

 

抽象とは何か、と質問されて、うまく答えられる人は少ないと思います。そもそも抽象という概念自体が抽象的です。第5章「抽象概念とは何か」(原題:抽象化の真実)では物理学者が自然法則を発見してきたプロセスや、ホフスタッターの「ドミノ計算機」の思考実験の例を見ながら、この厄介で面白い、「抽象」の意味に迫ります。

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創発性とは何か

日常の出来事は、基本物理学の観点から表すには途方もなく複雑なものです。たとえば、やかんに水を入れて火にかけたとします。そのやかんの中の水分子のすべての振る舞いを予測する方程式は、地球上のあらゆるスーパーコンピューターを宇宙の年齢と同じ期間だけ稼働させても、解くことができません。しかし幸い、こうした複雑さの一部分は、高レベルの単純さに形を変えます。たとえば、私たちは、水が沸騰するのにかかる時間をかなり正確に予測できます。その予測のためには、水の体積や熱源の出力といった、非常に簡単に測定できる物理量がいくつかわかればよいのです。さらに正確に予測するには、気泡の核形成が起こる場所の数や種類といった、より細かな性質を知る必要もあるかもしれません。しかし、そうした核形成などもやはり比較的「高レベルの」現象です。このように、水の流動性や、容器、熱源、沸騰や泡の関係を含めた、高レベルの現象のグループは、互いの関係の観点だけでうまく説明することができ、素粒子や原子レベルやそれより低いレベルのものを直接考える必要はありません。別の言い方をすれば、高レベルの現象全体の振る舞いは準自律的であり、ほとんど自己完結的だと言えます。このような、より高レベルでの説明可能性の変化は、「創発性」と呼ばれています。

還元主義は間違いだ

高レベルの物理量の振る舞いを構成しているのはその低レベルの振る舞いだけであり、それらの細かい点はほとんどが無視されています。このことから、創発性や説明についての誤った考え方が生まれ、広く行き渡ることになりました。それは「還元主義」と呼ばれており、科学はいつでも還元的な方法で、すなわち要素ごとに分析することによって、物事を説明し、予測するという説です。

科学が還元的に説明する場合も多いです。「原子間に働く引力はエネルギー保存の法則に従う」という事実を使うことによって、「熱の供給がなければやかんの水が沸騰しない」という高レベルの予測を行い、その予測を説明する場合などがそうです。しかし、還元主義では、レベルが異なる説明のあいだにいつでもそのような関係があることを求めていますが、多くの場合はそうなってはいません。前著『世界の究極理論は存在するか』では次のように書きました。

たとえば、ロンドンの議会広場に立っているサー・ウィンストン・チャーチルの像の鼻先にある特定の銅原子を考え、なぜその銅原子がそこにあるのか説明してみよう。それはチャーチルがその近くにある議会で首相を務めていたからである。そして彼のアイデアとリーダーシップが第二次世界大戦における連合軍の勝利に貢献したからであり、こうした人々を讃えるためにその像を建てる習わしがあるからだ。そして、その像の材料には銅を含む青銅が伝統的に使われるからだ。こうしてわれわれは、低レベルの物理的観察—ある特定の場所に銅原子が存在すること—を、アイデア、リーダーシップ、戦争、伝統のような、創発的な現象に関する極度に高レベルの理論を通して説明しようとする。

私がたった今示したもの以外に、その銅原子の存在を説明する低レベルの説明が、たとえ原理上にせよ、存在するはずだと考えなければならない理由はない。おそらく、還元主義的な「万物の理論」は、(たとえば)以前のある時点における太陽系の何らかの条件が与えられた場合、こうした銅像が存在する確率を原理上、低レベルで予測するだろう。しかし、こうした記述と予測(言うまでもなく不可能に近いことだが)は、何も予測しない。(…)こうした予測は、何よりもまず、たとえば第二次世界大戦とわれわれが呼んでいる複雑な運動に加わった、この惑星上のすべての原子にも言及しなければならないだろう。(…)あなたはその原子の配置とそれらの軌跡の何が、銅原子をこの場所に置く傾向をもたらしたのかを探求しなければならない。(…)

物理学においてさえ、いくつもの最も基本的な説明や、そこから得られる予測は、還元的ではありません。たとえば熱力学第二法則では、高レベルの物理プロセスはより無秩序な状態に進む傾向があるとされています。スクランブルエッグから、卵が泡立て器で溶く前の状態へと戻ることはありません。しかしスクランブルエッグをつくる過程を、何らかの方法で、個々の分子が確認できるほどの高解像度で動画撮影しておいてから、その動画を逆再生し、スクランブルエッグをつくる過程のあらゆる段階を分子スケールで詳しく調べられたとしたら、低レベルの物理法則に厳密に従って動いたり、衝突したりしている分子が見えるだけです。熱力学第二法則が、個々の原子についての記述からどのようにして導かれるのか、あるいは本当に導かれるのかどうかは、まだ明らかになっていません。

熱力学第二法則が導かれると考えなければならない理由はありません。還元主義にはしばしば道徳的な含みがあります。(つまり「科学は基本的に還元的であるべきだ」ということ)。このことは、私が第1章と第3章で批判した、道具主義と平凡の原理の両方に関係しています。道具主義は、高レベルの説明のみを否定するのではなく、あらゆる説明を否定しようとしている点を除いては、還元主義にかなり似ています。一方、平凡の原理は、還元主義を穏やかな形にしたもので、人々が関係する高レベルの説明のみを否定しています。

道徳的な含みを持つ悪い哲学的教義には、還元主義の鏡像とでも言うべき「全体論(holism)」を追加できます。これは、唯一有効な説明(あるいは少なくとも、唯一意味のある説明)だけが、全体という観点からみた場合の部分に相当するという考え方です。

還元主義や全体論といった説はすべて、同じ理由から不合理だと言えます。つまりそういった説は、良い説明かどうかという点以外を根拠にして、理論の容認または拒絶を主張しているのです。高レベルの説明が低レベルの説明から論理的に得られる場合はいつでも、高レベルの説明は低レベルの説明について何らかの意味合いを含んでいます。従って、高レベルの理論が追加された場合、それらに一貫性があるならば、低レベルの理論のあり方に対する制約は増えます。つまり、存在する高レベルの説明のすべてが、一体となって、低レベルの説明のすべてを含意する可能性はあり、その逆も同じように言えるのです。あるいは、いくつかの低レベルや中レベル、高レベルの説明が、一体となって、あらゆる説明を含意することもありえます。私はそうなると考えています。したがって高レベルの説明のいくつかが、正確な自然法則だとわかれば、「微調整」の問題を最終的に解決する方法となりうるかもしれません。その微視的な結果は、微調整されているように思えるかもしれません。一つの候補は、計算の普遍性の原理ですが、これについては次の章で議論します。もう一つはテスト可能性の原理です。それは、物理法則が試験装置の存在を認めないような世界では、物理法則自体もテストが許されないからです。しかし、現在の形では、そうした物理法則と見なされる原理は人間中心的かつ恣意的であり、それゆえ、悪い説明ということになります。しかし、そうした原理が近似するような、より深遠な形の原理があるかもしれません。そういった原理は良い説明であり、熱力学第二法則のような微視的物理学の原理と十分に調和するでしょう。

科学の発見のメカニズムと創発性の関係

いずれにしても、創発的現象は世界の説明可能性にとってきわめて重要です。人間は、昔から経験則を使って自然をコントロールすることができました。経験則による説明が対象としていたのは、火や岩といった創発的現象に存在する高レベルの規則性でした。さらにはるか以前には、経験則をコード化しているのは遺伝子だけでしたが、そのなかの知識もやはり創発的現象についてのものでした。したがって、創発性はもう一つの「無限の始まり」だと言えます。あらゆる知識創発創発的現象に依存しており、また物理的に創発的現象で構成されているのです。

創発性はまた、発見は連続的な段階として行うことができ、そこに科学的手法が入り込む余地が生まれているという事実の原因でもあります。理論を向上させていく流れのなかで、それぞれの理論が部分的に成功することは、それぞれの理論がうまく説明する(あとで部分的に間違っているとわかるとしても)現象の「層」が存在することに等しいのです。

連続的に登場する科学的説明が、その予測を説明する方法では異なっていることがあります。予測自体が似ていたり、全く同一であるような領域でもそれはありえます。たとえば、アインシュタインAlbert Einstein,1879-1955)による惑星の運動の説明は、ニュートンIsaac Newton,1642-1727)による説明を単に修正するだけではありません。それはニュートンの説明の中心をなす重力や一様にすすむ時間といった要素を否定しています。同じように、ヨハネス・ケプラーJohannes Kepler,1571-1630)の理論では、惑星は楕円軌道上を動くとされていますが、これは単に天球説を修正しただけでなく、天球の存在自体を否定しています。さらにニュートンの説明は、ケプラーが考えた楕円軌道の代わりに別の形状を用いているのではありません。ニュートンが物理法則に持ち込んだのは、瞬間速度や加速度といった微小区間で定義される量によって、物体の運動を規定する方法でした。つまり、こうした惑星運動の理論は、どれもそれ以前の理論が用いていた惑星の運動を説明するための基本的な手段を無視したり、否定したりしたのです。

このことは、道具主義を支持する説として、以下のように用いられてきました。

連続的に登場する理論のそれぞれは、前の理論による予測に小さいながらも正確な修正を行うことから、その意味では前の理論より良い理論だと言える。しかしそれぞれの理論の説明は以前の理論の説明を一掃してしまうことを考えると、以前の理論の説明はそもそも正しくなかったことになる。そうなると、連続して登場するそうした説明が、実在についての知識を成長させていると見なすことはできない。ケプラーの理論では、軌道を説明するのに力は必要なかった。ニュートンの理論では、逆二乗則で表す力であらゆる軌道を説明している。そしてアインシュタインの説明では再び、力は必要とされなくなっている。では、ニュートンの「重力」は(その効果を予測したニュートンの方程式は別として)、どうして人間の知識の前進となり得たのだろうか?

重力が人間の知識を前進させることが可能であり、実際にそうしたのは、理論が説明を行う際に介在する実体を一掃することと、その説明全体を一掃することは同じではないからです。

アインシュタインの理論は、ニュートンによる逆二乗法則や重力の法則などの性質のすべてを支持しただけでなく、そのようになる説明も行っています。ニュートンの理論もそれ以前の理論より正確な予測を行えましたが、それは、実際に起こっている出来事について、以前の理論よりも正しかったからに他なりません。

それぞれの連続的議論によって後から得られる情報に照らしてみれば、以前の理論で予測が間違っていた場所がわかるだけではありません。以前の理論がどの部分について正しい予測を行っていようとも、その理由は、以前の理論が実在についてある程度の真実を表していたからだということもわかります。つまり、以前の理論が表していた真実は、新しい理論のなかで生き続けます。これをアインシュタインは次のように言っています。「いかなる物理学理論にとっても、より包括的な理論への道を示し、その理論のなかの限定的なケースとして生き続けることほど、晴れがましい運命はない('There could be no fairer destiny for any physical theory than that it should point the way to a more comprehensive theory in which it lives on as a limiting case.')」

理論がもつ説明機能を最重要視することは、単なるつまらない好みの問題ではありません。科学がもつ予測機能は、理論の説明機能に完全に依存しています。また、あらゆる分野で進歩するには、予測ではなく、既存の理論における説明のほうを、次の新たな理論を推量するために独創的な形で変更する必要があります。さらに、一つの分野における説明は、ほかの分野についての私たちの理解に影響します。たとえば、奇術というのは奇術師の超自然的な能力が原因だと考える人がいた場合、その考え方は、そうした人々の宇宙論や心理学などの理論への判断にも影響するでしょう。

ところで、一連の惑星運動理論から得られる予測は、どれも似ていたというのは誤解です。ニュートンの予測は、橋渡しという意味では優れていますし、GPSを稼働させるうえでは多少不十分という程度ですが、パルサーやクエーサー、あるいは宇宙全体を説明するとなると、どうしようもないほど間違っています。そうした天体物理学現象すべてを正しく理解するには、アインシュタインによるまったく異なる説明が必要です。

連続的な科学理論の意味にこれほど大規模な不連続があるという点では、生物学との類似性はありません。進化する種では、ある世代で支配的とされる系統と、その前の世代で支配的とされる系統との違いはわずかしかないからです。科学的発見は漸進的なプロセスでもあります。科学では、そうしたあらゆる漸進的なプロセスと、悪い説明に対する批判と拒絶のほぼすべてが、科学者の頭のなかに存在しています。ポパーが言ったように、「われわれは、自分の理論を自分の代わりに葬り去ることができる('We can let our theories die in our place.')」のです。

理論に自らの生をかけることなしにそれを批判するというその能力には、もう一つ、より重要な長所があります。進化する種では、各世代の生物の適応が、その生物が生き続けるための、そして自らを次世代に伝えるうえで直面するあらゆる試練をくぐり抜けるための十分な機能を持っていなければなりません。それとは対照的に、科学者を一つの良い理論から次の説明へと導く中間的な説明が、有効なものである必要はまったくありません。こういった根本的な理由があるからこそ、説明的なアイデアは偏狭思考から抜け出せるのに、生物学的進化や経験則にはそれができないのです。

抽象概念は実際に物理的対象に影響を与えている

第4章では、知識はそれぞれが自らの複製のために生物や脳を「使う」(したがって、それらに「影響を与える」)抽象的な自己複製子だと述べました。それは、今まで述べてきた創発的レベルの説明よりも高レベルの説明です。抽象的なもの—遺伝子や理論のなかにある知識といった非物質的なもの—は、物質的なものに影響を与えているという主張です。物質的にみれば、そうした状況では、一組の創発的な実体(遺伝子やコンピューターなど)がほかの実体に影響を与えているだけですが、抽象概念はより完全な説明には不可欠です。コンピューターがチェスであなたに勝つ場合、実際に勝つのはプログラムであって、シリコン原子でもコンピューター自体でもありません。プログラムの知識の内容がすべてです。そしてその内容という説明が抽象概念に言及することは不可避です。したがって、そうした抽象概念は、その説明によって必要とされる形で存在し、実際に物理的対象に影響を与えています。

コンピューター科学者のダグラス・ホフスタッター(Douglas Richard Hofstadter,1942-)は、著書『わたしは不思議の環』で、無数のドミノでできた専用コンピューターを想像しています。一定時間後にバネで起き上がるドミノを多数用意し、ループや分岐、合流のあるネットワークの形に配置します。うまく設計すれば、ドミノの列を伝わるシグナルで、任意の計算を組み立てられます。ホフスタッターの思考実験では任意の数が素数かそうでないかを計算するためのプログラムを想定しています。あるドミノが、入力値の約数が見つかった時だけ倒れるのです。

素数である641を入力し、ドミノの運動が始まります。このドミノ・ネットワークの目的を知らない観察者がドミノの動きを見て、ある特定のドミノはずっと立った状態のままで、どんなドミノにも決して影響されないことに偶然気がつきます。その観察者はそのドミノを指さして、「どうしてあのドミノは決して倒れないのか」と不思議そうに尋ねます。それに対する一つ目の種類の答えは、「そんなの、その前にあるドミノが決して倒れないからに決まっているじゃないか」というものです。 確かに、その答えは今のところ正しいのですが、ずっと正しいとは言えません。それは別のドミノに責任を転嫁しているだけです。数え切れないほど何度も責任を転嫁していけば、最終的には最初のドミノに到達します。

その時点での還元主義的な説明は、「そのドミノが倒れなかったのは、最初のドミノを倒すことで始まる動きのパターンのどれにも、そのドミノが含まれていないからだ」ということになります。しかし、それは既にわかっています。面倒なプロセスを踏まなくても同じ結論には到達できるのです。そしてこのことが正しいのは間違いありません。しかしそれは私たちが探していた説明ではありません。なぜなら、その説明が取り組んでいるのは「出力のドミノは倒れるだろうか」という予測の問題だからです。そしてそれは間違った創発性レベルで質問しています。私たちが答えを探しているのは、「なぜそのドミノは倒れないのか」という問題です。

適切な創発性レベルにある、異なった方法の説明は次のようなものです。「641が素数だから」

この説明は、先ほどの答えと同じように正しく、物理的なことについてはまったく述べていないという興味深い性質があります。焦点が集団的性質へと上昇しただけではありません。こうした性質は何らかの形で物理的なものを超越し、素数性などの純粋な抽象概念と関連するようになります。

なお、ホフスタッターは「素数性が、特定のドミノが倒れない理由に対するもしかすると唯一の説明かもしれない」と述べますが、この点は修正が必要です。物理にもとづく説明も同様に正しいです。ホフスタッターは残念ながら還元主義を受け入れてしまっています。ホフスタッターは、著書を通じて、心は身体に影響するのか、といういわゆる「心身問題」を扱っています。ホフスタッターは最終的に、哲学者のダニエル・デネット(Daniel Dennett,1942-)の説に従い、「私」は幻想であるという結論に至っています。この結論によれば、「物体を好きなように動かす」ことができないのは、「(その)振る舞いを決めるには物理法則のみで十分」だからです。ここから、ホフスタッターによる還元主義が出てきます。

しかし、物理法則も何かを動かすことはできません。説明し、予測するだけです。また、物理法則は私たちにとっての唯一の説明でもありません。「641が素数だから」という説明は、ことのほか良い説明であり、物理法則と矛盾しませんし、純粋な物理法則の観点よりも多くのことを説明します。

「原因」というアイデア自体、創発的で抽象的です。哲学者のデイヴィッド・ヒューム(David Hume,1711-1776)が指摘したように、私たちは因果関係を認識することはできません。認識できるのは、出来事の連続だけです。さらに、運動の法則は情報を失うことがなく「保守的」です。すなわち、運動の法則は、初期状態を与えればあらゆる運動の最終状態を決定するのと同じように、最終状態を与えることで初期状態を決定したり、任意の時点の状態から別の任意の時点の状態を決定したりします。そのため、こうした説明レベルでは、原因と結果は入れ替え可能です。

同じ現象に対して異なる創発レベルに複数の説明があっても、矛盾は生じません。「641が素数だから」という答えが依存している素数理論は、物理法則の一つではないし、その近似でもありません。それは、抽象概念と、抽象概念の無限集合に関する理論です。私たちが、あらゆる整数の集合といった無限に大きいものの知識を得られるのは、不思議でも何でもありません。それは単にリーチの問題です。「小さな整数」だけに限定した整数論は、恣意的な修飾詞や、回避策、未回答の問題で一杯にならざるをえません。さまざまな種類の無限については第8章で議論します。

抽象概念とコンピューターと脳

創発的な物理量についての理論を用いて、やかんの水の振る舞いを説明する場合には、現実の物理システムの近似として、ある抽象概念(理想化されたやかんのモデル)を使っています。しかし、コンピューターを使って素数を調べる場合には、その逆の作業を行います。つまり、物理的なコンピューターを、素数を完璧にモデル化する抽象的なコンピューターの近似として使っているのです。現実のコンピューターと違い、抽象的なコンピューターは間違うことはありませんし、メンテナンスも必要ありません。そしてプログラムを実行するためのメモリと時間が無限にあります。

同じように、私たちの脳も、純粋数学の抽象概念のような物理的世界を超えたものについて知るために使えるコンピューターです。抽象概念を理解する能力というのは、人々がもつ創発的な性質です。古代アテナイの哲学者プラトン(B.C.427-B.C.347)はこれに大いに困惑させられました。幾何学の定理は決して観察できない知識が用いられています。それはどこから来たのでしょうか。プラトンは、あらゆる人間の知識は超自然的な存在によってもたらされるはずだと結論しました。

抽象概念についての知識がどこからもたらされるのかという問題は、謎めいた話ではありません。他のあらゆる知識と同じように、推量がスタートであり、批判と、良い説明の追求を経由してもたらされます。科学の範囲外にある知識は手に入れられないという考えが妥当なように思えるのは、ひとえに経験論のせいです。そうした知識が科学理論よりも「正当化されていない」ように思えるのは、「正当化された真なる信念」という誤解のせいにすぎません。

経験は哲学において一つの役割を担っています。それはちょうど、経験が科学において担っている、実験的テストの役割にあたるものです。経験は主として、哲学上の問題をもたらすのです。現実世界についての知識をどうやって獲得できるのかという問題が解決の難しいものではなかったら、科学哲学は存在しなかったはずです。社会を動かす方法についての問題がはじめになかったら、政治哲学というものは存在しませんでした。経験は、既存の複数のアイデアに矛盾を引き起こすことによってのみ、問題をもたらします。もちろん、経験は理論をもたらしません。

道徳と真実の関係

道徳哲学の場合に経験論と正当化主義が陥る誤解は、「"〜である"という命題からは"〜すべき"という命題は導き出せない」(懐疑論の哲学者デイヴィッド・ヒュームの言葉の言い換え)という格言として表されることが多いです。それは、道徳論は事実に関する知識からは推定できないという意味です。これは既に一般通念になっていて、道徳に関する、ある種の独断的な絶望につながっています。「"〜である"という命題からは"〜すべき"という命題は導き出せないのだから、道徳は合理的に正当化できない」ということです。そこで残されるのは、不合理を受け入れるか、あるいは道徳的判断を行わずに生きて行こうとするかという、二つの選択肢のみです。どちらの選択肢も、道徳的に間違った選択になってしまいがちです。それは、不合理を受け入れること、あるいは現実世界の説明を試みないことが、(単なる無知ではなく)事実上誤った理論につながってしまうのと同じです。

「"〜である"」という命題から"事実"に関する理論を導くことは科学の役割ではありません。科学の知識の成長は、良い説明を見出すことから構成されており、ある人の信念を正当化する方法からは構成されていません。また、事実に関する証拠と道徳的な格言は論理的に独立していますが、事実の説明と道徳の説明は独立ではありません。したがって、事実に関する知識は、道徳の説明を批判する上で有用なのです。

たとえば、19世紀に、アメリカの奴隷がベストセラーの本を書いたとしても、その出来事によって「黒人は神の摂理によって奴隷となるよう意図されている」という命題が論理的に除外されることはないでしょう。経験によってその命題を除外できないのは、その命題が一つの哲学理論だからです。しかしその出来事は、多くの人がその命題を理解するうえで用いており、必要だった説明を破綻させる可能性があります。そして結果的にそういった人々は、以前に受け入れていた説明に疑問を抱いたかもしれません。

逆に、非常に不道徳な教義の支持者たちはかならずというほど、関わりのある事実関係についての嘘も信じています。たとえば、2001年9月11日の米国同時多発テロ以降、世界中のかなり多くの人々が、この事件は米国政府か、イスラエルの秘密情報機関によって実行されたと信じています。まったくの事実誤認なのですが、そこには、道徳上の誤りの痕跡がはっきりと刻まれています。どちらの場合も、嘘へとつなげているのは説明です。西洋人が無差別に殺されなければならない理由を道徳的に説明するためには、欧米諸国の姿は見せかけにすぎず、本当の姿は違うということを、事実の面から説明する必要があります。それには、陰謀説や歴史の否定などを受け入れることが求められるのです。

一般的には、道徳に関する状況を特定の価値観の見地から理解するには、いくつかの事実を確実な方法として理解する必要があります。逆に、特定の価値観を道徳に関する状況から理解するのにも、いくつかの事実を確実な方法として理解する必要があります。たとえば、哲学者のジェイコブ・ブロノフスキー(Jacob Bronowski,1908-1974)が指摘したように、事実に関する科学的発見の成功には、前進するのに必要なあらゆる種類の価値観に関する確約(commitment)が伴っています。科学者は、真実を、そして良い説明を尊重し、アイデアや変化を喜んで受け入れる必要があります。科学コミュニティは、そして文明全体もある程度は、寛容や完全性、議論の公開性を尊重しなければなりません。

こうしたつながりは驚くようなことではありません。真実には、論理的な一貫性とともに構造上の一体性があるので、正確な説明が他から完全に隔てられてしまうことはありません。宇宙は説明可能なので、道徳的に正しい価値観は事実に関する正しい理論と結びつき、道徳的に間違った価値観は誤った理論と結びつくはずです。

哲学においても還元主義は空虚だ

道徳哲学における基本的な考えは、次に何をすべきか、ということです。もっと一般的に言うならば、どのような人生を送るべきか、そしてどのような世界であってほしいか、ということです。もしあなたが突然、地球上で最後の人間になったら、どんな人生にしたいのかと悩むことでしょう。「何でもいいから、私の気に入ることをすべきだ」と決めたとしても、そこからヒントはほとんど得られません。なぜなら、あなたの気に入ることというのは、良い人生とは何かというあなたの道徳的判断に左右されるのであり、その逆ではないからです。

これはまた、哲学における還元主義の空虚さを示しています。というのは、私があなたに、人生で追求すべき目的について助言を求めた場合、物理法則が要求することを行うように助言してもらっても仕方ないからです。いずれにせよ、私は物理法則の要求通りに行動することになります。また、私の好きなことをするようにと言ってもらっても意味はありません。自分がどんな人生を送りたいか、あるいはどんな世界であって欲しいかを決めてからでなければ、私は自分が何をするのが好きなのかわかりません。

私たちの好みはこのように、少なくとも部分的には自らの道徳的説明によって形成されているので、人々の好みを満足させるのに有用だという観点だけから善悪を決めるのは、筋が通りません。そうしようとするのが「功利説」と呼ばれる、影響力の強い道徳哲学の目的です。功利説が果たした役割は、科学哲学において還元主義が果たした役割とほとんど同じです。つまり、功利説は伝統的なドグマに対抗するうえで、自由をもたらす活動の中心としての役割を果たしますが、一方で功利説自体の実際的な内容には、真実がほとんど含まれていないのです。

次に何をすべきかという問題は避けることはできません。さらに、善悪の区別は、こうした問題に対する最善の説明に現れるものなので、私たちはそうした善悪の区別を現実のものと見なす必要があります。別の言い方をすれば、善悪の間には、客観的な違いが存在します。善悪というのは目標や行動の現実的な属性なのです。第14章では、同じことが美学の分野にも当てはまること、つまり、客観的な美というものが存在することを議論します。

抽象概念の諸側面

美や、善悪、素数性、無限集合などはすべて、客観的な形で存在します。しかし物理的に存在するわけではありません。それはどういう意味でしょう。確かにそれらは、あなたに影響を与えますが、どうやらそれは物理的対象が影響を与えるのと同じ意味ではないようです。通りを歩いていて、こういったものにつまずくことはありません。しかしそうした区別は、経験論に偏った私たちの感覚が想定するほど大きくはありません。

物理的対象の「影響を受ける」とは、その物理的対象に関する何かが、物理法則を通じて、変化を引き起こしたという意味です。しかし因果関係と物理法則のどちらも、それ自体は物理的対象ではありません。それらは抽象概念であり、そうした抽象概念についての私たちの知識は、他のすべての抽象概念と同じく、私たちの最善の説明がそれらを引き合いに出しているという事実から生まれるのです。進歩は説明に依存します。したがって、世界を、説明できない規則性がある一連の出来事にすぎないとみなそうとすることは、進歩をあきらめることになります。

こういった、抽象概念が現実に存在するという主張からは、それがどのようなものとして存在するのか、たとえば、どの抽象概念がほかの抽象概念の単なる創発的側面であり、どの抽象概念がほかの抽象概念とは独立に存在するのかといったことはわかりません。物理法則が異なっている場合にも、道徳法則は変わらないのでしょうか。物理法則が異なる場合の道徳法則において、権威に対しむやみに服従することが、知識を一番うまく得られる方法だとしているなら、科学者は進歩するために、私たちが科学的探求の価値だと考えるものを回避しなければならなくなるでしょう。道徳はそれより自律的だというのが私の推測です。よって、そうした異なる物理法則は道徳に反するということも、また現実の物理法則よりも道徳的な物理法則を想像することも、理にかなっています。

抽象概念の世界へのアイデアのリーチは、そうしたアイデアが含んでいる知識がもつ特性です。脳のもつ特性ではありません。理論というものは、たとえそれを生み出した人物が気づいていなくても、無限のリーチを持ちます。しかし、一人の「人」もまた抽象概念です。そして人々には独特の、ある種の無限のリーチ、つまり説明を理解する能力の及ぶリーチがあります。そしてこの能力自体が、「普遍性」というより広い現象の一つの例です。普遍性については次章で議論します。

 

用語解説

創発性レベル(Levels of emergence):現象のうち、それを構成する実体(原子など)に分解せずに、現象どうしの視点からうまく説明できるもの

自然数(Natural number):1、2、3のような整数。

還元主義(Redictionism):科学はいつでも、構成要素に分解することで、物事を説明しなければならない、あるいはそうすべきである(したがって高レベルの説明は基本的ではない)という誤解。

全体論(Holism):重要な説明はすべて、全体の観点からみれば構成要素であり、その逆ではないとする誤解。

道徳哲学(Moral philosophy):どんな人生を送るべきかという問題に対処するもの。

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書評

自分がこの章を初めて読んだときには、たまげました。還元主義や功利主義による説明は無機的な冷たさがある、程度のイメージしか持っていなかったのですが、それが必ずしも説明として良いとは限らないという主張は非常に腑に落ちますし、霧が晴れたような気持ちになります。哲学というのは、ドイチュから入れば余計な勉強を省けると思います。

ホフスタッターの代表作『ゲーデル・エッシャー・バッハ』(白揚社)は、前著『世界の究極理論は存在するか』で「あらゆる人の必読書」として参考文献に挙がっています(ごめんなさい、読めていません)。デネットクオリアの否定論へのドイチュの反論は第7章でさらに強化されます。 

それにしても、繰り返しになりますが、あらゆる創発性レベルが最善の説明になり得るという説明は、非常に勇気づけられるものです。この発想は経済学などの社会科学分野でも有用でしょう。たとえばお金というものは創発的な現象だと考えるべきですが、その概念を所与とした議論も有効です。ランボルギーニプリウスは実用性に分解して考えると、機能として大して変わらない(あるいはプリウスの方が便利である)のに、値段が大きく違います。イメージや文脈という別の創発性レベルでの説明があるのです。そうした文脈では、凹みなどの傷は意味を持ちます。逆に、「傷がついた、言い換えればエントロピーを高めたことが価値を下げた、つまりエントロピーこそが価値だ」という要素還元的な説明では、そもそもランボルギーニプリウスの値段の違いを説明できないはずです。

近年の「デザイン」をめぐる議論の混乱も、本章での整理を踏まえればかなり交通整理されると思います。人間の社会システムにはさまざまな創発性レベルがあります。デザインとは、そういったさまざまな創発性レベルにおける問題解決です。人間の周辺に問題があることが多いため、デザインは人間を中心としたものだという考え方が生まれましたが、より正確には道徳は物理法則と無関係ではないというドイチュの主張から裏付けられる話だと思います。かつてデザインというのは物理的な製品にのみ適用される用語でした。現在では企業活動や人の生活のあらゆる創発性レベルで適用される用語になっています。つまり、社会はますます多数の創発性レベルで問題解決が図られるようになってきているということです。過去に問題が解決されたことで、現在は「より良い」問題に取り組めているとも言えます。

ドミノの例を読んで自分の脳裏をよぎったのは、マリオメーカー計算機(とマインクラフト計算機)でした。

ドミノでの計算機よりもさらに理解の難しい構造をしていますが…。

 

参照

システム思考については木村英紀氏の整理が良いと思います。

・木村英紀『世界を動かす技術思考 要素からシステムへ』,(ブルーバックス,2015)

 

デザインの定義については、内藤廣氏のものが素晴らしいと思います。

内藤廣構造デザイン講義』,(王国社,2008)

「デザインとは、エンジニアリングと人の心を、工学と人文を繋ぐもの、異なるテリトリーを翻訳して繋ぎ合わせるものです。」(p42)

 

内藤廣形態デザイン講義』,(王国社,2013)

「デザインとはその問題だけを解決することではありません。現れてくる問題を予測し、拡大していく領域の壁をどうやって乗り超えられるかだと思っています。領域の壁をまたぐための力、というふうにデザインを定義してもいいかも知れない。」(p33)

 

IDEO社のメンバーは、非常に大きな社会問題を解決する方法としてデザインを使うことを宣言しています。

・ティム・ブラウン著,千葉俊生訳,『デザイン思考が世界を変える〔アップデート版〕』(早川書房,2019)

「今日の私たちが直面する難問は、あらゆる方向に広がっているが、この10年間のIDEOの活動を通して見ると、その中でもとりわけ緊急性が高く、なおかつデザインが有望な道筋を描きはじめている分野がいくつか見えてくる。まとめると次のようになるだろう。

① 時代遅れになった社会システムのデザイン

② 参加型民主主義の復興

③ 脱自動車時代の都市のデザイン

④ 人間に優しい人工知能、スマート・マシン、ビッグ・データのデザイン

⑤ バイオテクノロジーや人間の誕生と死にまつわるデザイン

⑥ 線形経済から循環経済への転換」(p.297)