現代啓蒙

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『無限の始まり』全体要約

デイヴィッド・ドイチュ『無限の始まり』は、日本語版で611ページの大著です。扱っているテーマの広さからAmazonレビューを見てもどうにも内容が掴みづらいと思います。本書がどのジャンルの本であるのかと考えると、人類学、科学哲学、文明論などがあたりますが、個人的には「啓蒙思想書」と呼ぶのがより正確だと思います。ドイチュは量子コンピューターの発明者である理論物理学者として有名ですが、自分は彼はただの物理学者の枠には収まらない本物の哲学者だと考えています。ドイチュについては以下の記事でまとめました。

デイヴィッド・ドイチュについて - 現代啓蒙

以下、かなり端折りながらになりますが、『無限の始まり』を要約します。

 

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本書の主張の一つは、進歩は「良い説明」によってなされる、というものです。そして、進歩は無限に続けることができます。この主張を科学と哲学における事実上すべての基本的分野を俯瞰することで検証します。

進歩は知識が増大することで可能となります。知識が何に由来するのかという問いは哲学において長らく議論されてきました。当初は「経験論」とよばれるアイデアが主流でした。経験論は伝統的権威を追放しましたが、その代わりに・帰納法などの「導出プロセス」と・感覚的経験 という二つの偽りの権威を生み出しました。帰納法は直感的ですが、説明を生むことはありません。どの感覚的経験が正当かを論じる哲学が「正当化主義」です。正当化主義の論理は、変化に対してアイデアを守る方法を探す傾向にあります。

正当化主義と逆の認識は、「可謬主義」とよばれます。可謬主義とは、権威ある知識の源という存在を否定し、アイデアが真であると正当化する手段が存在しないとする考え方です。可謬主義者は、自分たちの最善かつ基本的な説明にさえ、真実だけでなく、誤解が含まれていると考え、そうした説明を良い方向へ変えようと努力する傾向があります。この哲学を押し進めたのがカール・ポパーです。今はまだ問題だと考えられていないような誤ったアイデアを、将来発見して変えたいと考える論理は、限りない知識の成長に不可欠です。科学理論はあくまで推量にすぎません。推量は説明を伴います。悪い説明に対し、良い説明は一部分を取り出して変更することが難しい点で、客観的に区別がつきます。

ポパーを数少ない例外として、20世紀以降の知識論は混迷を続けてきました。経験論から発展し、目に見えるものしか理論に組み込むことを認めない実証主義は、さらに論理実証主義という流れに退行しました。言語哲学分析哲学からは、自然科学的真理や科学の営みですらナラティブにすぎないと考えるポストモダン哲学が生まれました。これらの哲学の潮流は別にしても、経験論の名残りはいまだに多くの科学者に残っています。

ドイチュによれば、ニールス・ボーアらによる観測問題の解釈「コペンハーゲン解釈」は、悪い哲学に則っています。現象の理由を説明せず、予測が合うからとその説明を省こうとする「道具主義」は、量子論に限らず心理学などさまざまな科学分野でいまだに見られると言います。悪い哲学とは、単に間違っているだけでなく、真理へ近づく試みを積極的に阻むような哲学です。

説明を省く科学理論には、「道具主義」の他にも「全体論」「還元主義」といったバリエーションがあります。全体論と還元主義はいずれも、特に後者は現在も根強い支持のある科学哲学観です。

物事にはさまざまな「創発性のレベル」が存在します。私たちはヤカンの中の水分子の個別の振る舞いを計算することなく、沸騰するまでの正確な時間を計算できます。あるいは、人類の歴史を振り返って抽象的な用語を用いてそれを説明することなくして、ある銅原子がその銅像を構成している理由を説明できません。このように、より上位の創発性レベルで事象を簡単に説明できるようになることが「創発性」です。この創発性の法則は、いまだ解明されていません。最も上位の全体的創発性レベルですべてが説明できると考える全体論や、要素還元を繰り返すことで真理へ到達できると考える還元主義は間違っており、物事のあらゆる創発性レベルは基本的で最善な説明になり得ます。抽象概念は創発的なものですが、実在し、物理世界に影響を与えます。

人間の「創造力」は、脳内で起こる創発的な現象です。この原理は未解明ですが、人間の創造力と、その宇宙的意義を認めないと、人類の意味や進歩が起こることの説明に大きな間違いを冒します。その間違いを冒している人として、スティーブン・ホーキングやジャレド・ダイヤモンドなどが挙げられます。

人工知能研究は数十年間にわたり行き詰まっています。これは創造力が未解決問題であることを無視した結果と言えます。チャットボットを人工知能の定義に使おうとしたチューリングテストは、ドイチュに言わせれば道具主義ということになります。逆に、人間の創造力の原理が解明されさえすれば、明日にでもそれをプログラムすることができます。人間の脳と古典的コンピューターは同等だからです。

本物の人工知能は、人間と同じく、普遍的な説明能力を獲得するはずです。ドイチュは人間を「ユニバーサル・エクスプレイナー(普遍的な説明者)」であり、自然法則で制約されていない限りあらゆる物理的変成が可能な「ユニバーサル・コンストラクター(普遍的な建設者)」であるといいます。知識の増大によって可能になったその文明の物理的変成のレパートリーを「富」といいます。かつて多数の文明が自然や外敵に滅ぼされましたが、それは例外なく富が足りないことが原因でした。資源管理に失敗したためにイースター文明が滅んだという通説は間違いです。彼らに足りなかったのは資源管理ではなく富です。ジャレド・ダイヤモンドは、西洋文明が成功した理由の説明を地理的要因に求めますが、この還元主義的説明も間違っています。

抽象概念であっても、客観的な進歩があります。道徳的説明も客観的であり、かつては疑われない常識であった、「黒人は軍隊の中で出世できなくて良い」「女性はその能力を使うべきではない」といった価値観は現在の西洋文明では間違いだと見なされています。政治哲学も同様です。長い間、政治哲学の中心テーマは「誰が統治すべきか」というものでした。ここでは、良い政策は良い為政者から生まれると仮定されています。しかしこれは説明にはなりえません。社会選択理論では政策を選ぶ国民の投票行動を「意思決定」としていましたが、その意味で合理的な選択は不可能であることはケネス・アローが半世紀以上前に証明しています。論理的に不可能なことを要求することを強いられているのは、その前提が不合理であることを示しています。社会選択理論は、理論が想定する「意思決定」を、現実の意思決定のプロセスと取り違えています。選挙で大事なことの一つは、存在しない「市民の意思」を測ることではなく、政策についての良い説明を生み出すことです。一般に、二つの良い説明の中間をとると、それぞれよりも悪いものが出来上がります。比例代表制では、そうした政策を生み出す悪いインセンティブが働きます。また、選挙は失敗したリーダーを非暴力的手段で排除する仕組みとして働きます。すなわち、民主主義制度は可謬主義に根ざしています。

「美」も、一般に客観的であるとは見なされていません。しかし、名曲や名画が生み出されるとき、芸術家の脳内では創造的なプロセスが働いており、実際に世界に何かを付け加えています。美は人間の創造力とは別に、生物進化のプロセスでも生み出されます。花がその代表です。花は虫と共進化をしてきましたが、その過程で離れた種族間で利用する偽造されにくい暗号パターンとして、「客観的な美」という基準を用いたのです。人間はその遺伝情報量とは比較にならない大量の情報を一個人でも扱うため、花や虫と同様に、個人間の情報交換でも客観的な美の基準を用います。ユニバーサル・エクスプレイナーである私たちは美それ自体を目的として生み出す営みも行います。これは科学と同様、自然界には存在しない知識創造のプロセスです。さらに、人間の美の選択基準は性選択にも適用されているでしょうから、人間は進化の過程でサルから客観的な美の基準へ向かって進化しつつある、という愉快な推論ができます。

数、文字、計算機といったものが普遍性を獲得したのは、偶然でした。ドイチュはこれを「普遍性への飛躍」とよびます。これらはそれぞれ、最初は偏狭な目的で作られました。数は古代ギリシャにおいて、現実のものを対応させ、数える目的を脱しなかったようです。0という仕組みを導入したことで、数は普遍性を獲得しました。象形文字は、そのリストの中でしか意味を当てはめられません。当初は象形文字を補助する表記法として発達したアルファベットは、次第にそれのみであらゆる文章を表記するようになりました。アルファベットは潜在的にあらゆる単語を表記する普遍性を持っています。アルファベットの発明は人類史でフェニキア人祖先による一度のみ起こりました。計算機は、バベッジが解析機関を作り出した時点で、普遍性を獲得していてもおかしくなかったはずです。彼がきちんと周りを見渡せば、すでに継電器という完璧なものがあり、普遍的なデジタルコンピューターを作れたはずでした。潜在的に長さ制限のないシステムには誤差修正が不可欠なので、普遍性への飛躍はすべてデジタル・システムで起こります。基本音声の数が有限であることや、普遍的アナログ・コンピューターが存在しないのはこれが理由です。

数や文字などは、自己複製子「ミーム」です。ミームは目には見えませんが、確かに実在しています。ミームは文化の最小単位でもあるアイデアであり、大半のミームは短命です。

生物の進化のプロセスと、脳内での知識の成長には、後者には「説明」があるという大きな相違点があります。ミームと生物進化においても、その伝達・変異・選択メカニズムは異なります。ミームは遺伝子と異なり、行動を起こさせることによって初めて人に伝わり自己を複製します。ミームの創造は創造的なプロセスで行われます。スーザン・ブラックモアのミーム論は人間の創造力を軽視していたために、文明の進歩もミームの自然選択的な進化の結果だと考えていました。また、従来のミーム論は、「合理的なミーム」と「非合理的なミーム」の違いを理解していませんでした。

人特有のミームの伝達方法があります。オウムは聞いた音を正確に反復しますが、その話の内容は理解できません。人間は講義の教授の話をそっくり反復することはできませんが、その内容を理解することができます。人は「模倣」でミームを伝達しているのではありません。事象から創造的に説明を見抜くことでミームを複製します。

私たちの文明の歴史は、一人一人の創造力が生み出したアイデアの歴史です。しかし、その創造力が発揮されてきたのはかなり最近のことです。各自がその創造力により少しでも改善を行っていれば、指数関数的な発展が始まったはずです。実際には、100万年間、人類は洞穴で生活し、農耕を初めてから1万年以上もほとんど変わりばえのない生活を続けてきました。

この謎を解く鍵は「非合理的なミーム」です。ミームは(遺伝子と同じく)宿主やその種に有利に働くとは限りません。幸せを増大するとも限りません。そのミームが多くの人へ正しく複製され、競合ミームを排除するという選択圧があるのみです。

人々の創造力は、ミームにとっては複製プロセスに欠かせないものでもあると同時に、危ういものでもあります。創造力で改変されてしまうため、ミームが正しく複製されない可能性があるからです。

人類史の大半の期間、人類に広がっていたのは非合理的なミームでした。

非合理的なミームは、人々の創造力を機能停止させます。人々は、自分が存在しているのはそのミームを複製するためであると思い込みます。革新は許容されません。人々には知識を生み出す方法も批判能力もないので、変化は往々にして良くないものです。すなわち、皮肉にも創造力を発揮せず変化を起こさないことは理にかなっています。こうした社会は、生まれた時から死ぬまで、何の変化も起きない社会です。これをドイチュは「静的社会」とよび、反対に、現在の私たちの西洋文明を「動的社会」とよびます。

静的社会での性選択においては、非合理的ミームを忠実に実行できるかどうかが重要な基準になります。非合理的ミームを、たとえば集団内の社会的地位の高い相手から見抜く目的で、人類はその創造力を発達させてきました。このミームと創造力の共進化は、言語操作に特化した脳構造の発達や、記憶力の向上などを伴ったものでした。

ミームの選択圧の上で、真理であるというのは複製されるのに有利な面もあります。橋を建てたり砲弾を飛ばしたりなど、さまざまなことに便利に使えるとしたら、正しいニュートン力学は人々に広がるでしょう。こうした合理的なミームは、深遠なる真理に近づきます。合理的なミームは動的社会において発達します。そして、非合理的ミームと合理的ミームは互いにそれを排除しようとします。

人類が非合理的ミームの支配する社会から、合理的ミーム支配へ移行しようとした時期が、歴史上、何度かありました。アリストテレスのいたアテナイはスパルタの侵略により進歩の芽が摘まれました。中世フィレンツェの啓蒙運動はキリスト教勢力によって排除されました。現代の西洋文明の進歩は、歴史上初めて、継続的に何世代にもわたって起きています。この波はガリレオで始まり、ニュートンで後戻りできなくなりました。

合理的ミームが完全に支配的になったとは言い切れません。世界にはいまだに「この進歩は本物ではない」とする思想家が大勢います。また大半の人がその自分の認識とは異なり、普遍性に不要な制約を加える「偏狭思考」から脱していません。これもやはり経験論の名残りです。このような中では、またいつか「悲観主義」が蔓延することになるかもしれません。

「楽観主義」と「悲観主義」という区別は、「コップ1杯の水を『たった半分しかない』と考えるか『半分も入っている』と考えるか」といった感情論の意味合いで理解されがちです。しかし、ドイチュの言う楽観主義/悲観主義の定義は、そうした感情論とは無関係です。この違いは、将来の物事へどう備えるべきかという認識論の問題です。

この違いについて「持続可能性(sustainable)」の意味を検討し明らかにします。「維持(sustain)」には二つの相反する意味があります。・人の必要を満たす と、・物事の変化を妨げる という意味です。

イースター文明は、せっせと巨大な石像を作り出す文明を維持して、滅びました。今ではイースター島の最盛期の人口密度を超える地域は多数あります。人々が知識を生み出し、富を生み出すことによってのみ、文明は維持されてきたわけです。

悲観主義にもとづく行動指針は、予防原則として知られています。例えば、CO2を排出していたら地球温暖化が進むのでCO2の排出を減らすため生活水準を落とすべきだ、という発想が当てはまります。しかし、仮に予想と反して来年から地球が寒冷化したらどうするのでしょうか。自然由来だから対処する必要がない、という考え方は偏狭です。私たちは常に予測可能性の地平の向こうに思考を巡らせ、技術開発を行い、テクノロジーを発達させなければなりません。パンデミック、隕石衝突、ガンマ線バースト、太陽の赤色巨星化なども克服していく必要があります(注:本書原書は2011年,邦訳は2013年)。人類は宇宙的枠組みで重要です。スティーブン・ホーキングの説く、⼈間は「典型的な銀河の外縁部にある、平均的な恒星を回る中規模の惑星の上に⽣じた化学物質の浮きカスに過ぎない」という認識は間違っています。数十億年後の太陽の色は、人間の選択次第です。

 

ドイチュは楽観主義の原理を以下のように提示します。

【いかなる悪も知識が不十分なために生じる】

 

また、 すべての物理的変換現象は

自然法則によって禁じられているために不可能である

あるいは

・適切な知識があれば達成可能である

のどちらかであるはずです。そして、より深い説明は新たな問題を提示します。すなわち、そこから以下の二つの原理が示されます。

 

・問題は避けられない

・問題は解決できる

  

ドイチュに言わせれば、イギリス啓蒙思想はこの二つを理解していたのに対し、ヨーロッパの啓蒙思想は後者を理解し前者を理解できていませんでした。理想郷を目指して恐怖政治に陥った急進派を生み出したのはこの誤りが原因です。

物理法則で禁じられているものの中には、並行宇宙間での情報通信、一部の数学証明問題の証明、将来のテクノロジーや重大変化の予測、などがあります。物理法則で禁じられていることがあることは、無限の進歩を阻害する要因ではなく、必要条件です。

人間の死は悪であり、物理法則では不死は禁じられておらず、したがって解決可能です。これができないと考えるのは偏狭思考です。コンピューターが意識をもつことも同様に、実現可能です。道徳的価値基準を含め、私たちは無限に進歩することができるのです。