現代啓蒙

気になる現代啓蒙思想をまとめます

『無限の始まり』第4章「進化と創造」

『無限の始まり』全体目次 第1章「説明のリーチ」(The Reach of Explanations)
第2章「実在に近づく」(Closer to Reality)
第3章「われわれは口火だ」(The Spark)
第4章「進化と創造」(Creation)
第5章「抽象概念とは何か」(The Reality of Abstractions)
第6章「普遍性への飛躍」(The Jump to Universality)
第7章「人工創造力」(Artificial Creativity)
第8章「無限を望む窓」(A Window in Infinity)
第9章「楽観主義(悲観主義の終焉)」(Optimism)
第10章「ソクラテスの見た夢」(A Dream of Socrates)
第11章「多宇宙」(The Multiverse)
第12章「悪い哲学、悪い科学」(A Physicist's History of Bad Philosophy)
第13章「選択と意思決定」(Choices)
第14章「花はなぜ美しいのか」(Why are Flowers Beautiful?)
第15章「文化の進化」(The Evolution of Culture)
第16章「創造力の進化」(The Evolution of Creativity)
第17章「持続不可能(「見せかけの持続可能性」の拒否)」(Unsustainable)
第18章「始まり」(The Beginning)

 

第3章は、デイビッド・ドイチュの人類史観が凝縮された章だったと言えます。すなわち、人間がもつ、実在を説明する能力は宇宙的な意義があるという議論です。数十億年間、ただ退屈なサイクルを繰り返していた宇宙の環境は、知識が到達することでそれまでと全く別の物理的な変化を起こします。

知識には、人の思考が生み出す知識の他に、遺伝子としてコードされた生物進化によるものもあります。この二つの知識の類似性と相似性が本章前半のテーマです。

後半ではこの宇宙の物理定数が私たちの生存にぴったりである理由を説明する理論として採用されている「微調整」についても触れながら、創造説について俯瞰的に議論がなされます。

本章の原文でのタイトルは"Creation"です。

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人間の「知識」と生物の「知識」

人間の脳にある知識と、生物学的適応としてある知識はどちらも、広い意味での進化、つまり交互に起こる「選択と既存情報の変化」という進化によって生み出されています。人間の知識の場合、既存情報の変化は推量、選択は批判と実験によります。一方、生物の場合、既存情報の変化には遺伝子の突然変異(ランダムな変化)が関係しています。また自然選択では、その生物の繁殖能力を最も大幅に向上させる変種が有利となり、その結果、その変異体の遺伝子を集団に拡散させるメカニズムが働いています。

 遺伝子が任意の機能に適応していると言った場合、遺伝子にわずかな変化を与えても、その機能を実行する能力が向上することはほとんどないという意味です。別の言い方をすれば、良い説明と同様に、良い適応は、機能を保ったまま変化するのが難しいという点で区別がつきます。

 人間の脳とDNA分子にはそれぞれ多くの機能がありますが、注目すべきは、それらが汎用情報メディアであることです。原理上は、どんな種類の情報でも保管できます。さらに言えば、そのそれぞれがある種の情報を保管できるように進化していますが、それらの情報には共通して、宇宙的に意義のある一つの特徴があります。それは「いったん適切な環境のなかに物理的に具現化されれば、その状態を続けようとする傾向がある」ということです。そうした情報(私はそれを「知識」と呼びます)〔※ドイチュによる知識の定義はその後アップデートされています。第3章書評を参考〕が、進化や思考の誤り修正プロセスを踏まずに出現する可能性は非常に低いのです。

 この二種類の知識のあいだには、重要な相違点もあります。一つは、生物学的知識は非説明的であり、ゆえに有限のリーチしかありませんが、説明的である人間の知識は、広大な、あるいは無限のリーチをもつ点です。もう一つは、突然変異がランダムに生じるのに対して、推量はある目的をもって、意図的に組み立てられる点です。

とはいえ、進化論と人間の知識は関連性は高く、生物学的進化についての歴史上重要な誤解にあたるものが、人間の知識についての誤解のなかにもあります。

 

創造説、自然発生説、目的論的証明、ラマルク主義

創造説は、超自然的な存在があらゆる生物学的適応を設計し、創造したとする考え方です。すなわち、「神々がそれを行った」という悪い説明です。変更するのが難しい条件によって補完されない限り、そうした理論は問題に対処することすらできません。生物圏を説明するという問題は、その適応において具現化されている知識がどうやって創造されるのかを説明する問題だと言えます。創造説に立てば、あらゆる生物の設計者とされる者は、その生物の仕組みについての知識を創造したはずです。それゆえ創造説は、本質的な難問に直面します。その設計者は完全に超自然的なもの、つまりあらゆる知識を備えて「ただそこにいた」存在なのか、あるいはそうではないのかという難問です。「ただそこにいた」存在だとすれば、(生物圏に関する)説明とはなりません。あるいは生物圏自体は設計者と同じ知識を備えて「たまたま発生し、その知識が生物のなかに組み込まれた」と言う方が簡潔です。一方で、その超自然的な存在が生物圏を設計し創造した方法は、それはもはや超自然的存在ではなく、ただ目に見えない存在です。例えばそれが地球外生命体であれば、創造説とは言えなくなります。しかし、地球外生命体に設計者がいたと主張するなら話は別ですが。さらに、すべての設計者は、当然、その適応がそうした形になるよう意図したはずです。しかし、脊椎動物の眼の欠陥や、類人猿のもつ壊れたビタミンC合成遺伝子などの証拠は、設計に失敗したように見えます。もちろん、このような設計に失敗した機能にはまだ見つかっていない目的があるのだという立場に逃げることもできますが、しかしそれは悪い説明です。そうした説明では、設計に失敗したり設計がされていない実体はどれも本当は完璧に設計されていると主張できてしまいます。

創造説の基本的な欠陥は、啓蒙運動以前の時代の、人間の知識に対する権威的な概念の基本的な欠陥でもあります。ある種の創造説は、ある種の知識が超自然的存在から初期の人間へ語られたという点でまったく同じ説になっています。それ以外の創造説では、偏狭な社会機能(政府における支配者階級の存在や、宇宙における神の存在そのものなど)は、タブーによって守られているか、まったく無批判に当たり前とされており、アイデアとして認識もされていません。

自然発生とは、生物がほかの生物から生まれるのではなく、それに先行する無生物だけから形成されることです。たとえば、部屋の暗い隅にあるぼろ切れの山からネズミが生まれるのが自然発生です。小動物は普通の方法での繁殖に加えてそうした方法でたえず自然発生しているという説は、数千年ものあいだ、異論の余地がない一般通念の一部とされていて、19世紀になっても真剣に考えられていました。自然発生説はこの頃までに微生物に限り議論されるようになっていましたが、これは実験的に反論するのが難しかったのです。ルイ・パスツールLouis Pasteur,1822-1895)は1859年、精巧な実験を行い、自然発生説へ反論することに成功しました。

「目的論的証明」は「世界の一部の側面は、人間が設計したのではないのに、設計されたように見える。”設計には設計者が必要”なので、神が存在するはずだ」という考え方です。目的論的証明は神の存在を証明するための古典的な「証拠」の一つとして、数千年ものあいだ用いられてきました。すでに述べたように、この考え方には、そうした設計を生み出す方法についての知識を、どうやって生み出したのかという問題に対処していないので、悪い説明です。古代アテナイの哲学者ソクラテス(B.C.469?-399)は、生物における「設計らしきもの」を説明する必要のあるものだと指摘しており、これは的を射ていました。ソクラテスは、何が「設計らしきもの」を構成しているのか、その理由は何かということについては、いっさい言明していません。結晶や虹には「設計らしきもの」はあるのでしょうか? 太陽や夏はどうでしょうか? それらは眉毛などの生物学的適応とどう違うのでしょうか?

「設計らしきもの」について、具体的には何が説明される必要があるのかという問題にはじめて取り組んだのは、聖職者で、目的論的証明の熱心な支持者だったウィリアム・ペイリー(William Paley,1743-1805)でした。ペイリーは著書『自然神学(National Theology)』で、そこに時計が落ちていることは、石が落ちているとは違う意味があるということを示しました。その理由は、時計はある目的を果たすだけでなく、その目的に適応しています。時計の構造は、正確な時を刻むという目的に触れることなく説明することはできません。それは物質の配置としては珍しく、それができたのは偶然ではあり得ず、人々がその時計を設計したに違いないのです。もちろん、同じ議論はネズミなどの生物にもよりいっそう当てはまるということを示します。ネズミの眼球の水晶体には、光を集めて網膜上に像を結ぶという、望遠鏡のレンズと同じ目的があります。さらにこの網膜上の像には、食物や危険などを認識するという目的があります。

ペイリーは自然発生するとされていたネズミの全体的な目的が何であるかは知りませんでした。しかし、ペイリーの眼球の話だけでも、ペイリーの主張には十分です。ある目的のための設計らしきものの証拠となるのは、部品すべてがその目的を果たすことだけではなく、そうした部品をわずかに変えると、その目的にあまり、あるいはまったく適合しなくなることです。良い設計は、変更が難しいのです。

時計やネズミでは、知識は具現化されています。現在では、私たちは「設計者なき設計」がありえることを知っています。(後述するネオ・ダーウィニズム。)ペイリーは問題の理解という点では全面的に正しかったのです。しかし、創造説では究極の設計者を誰が設計したのか、という問いに答えられません。すなわち、ペイリー自信が出した答えは、その論拠により自分自身で除外されてしまいます。彼はそれに気付きませんでした。

チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin,1809-1882)の進化論の発表以前から、人々は生物圏とその適応は徐々に現れたのではないかと考えはじめていました。ダーウィンの祖父で、啓蒙運動の熱心な支持者だったエラズマス・ダーウィン(Erasmus Darwin,1731-1802)などはそうした機能向上のプロセスを「evolution」と呼びました。これは現在の用法とは異なります。ダーウィンは、自らが発見したプロセスを「自然選択による進化('evolution by national selection')」と呼ぶことで区別していますが、それは「変化と選択による進化('evoluton by variation and selection')」という名称の方がよかったでしょう。

「自然選択による進化」は単なる「進化」よりもはるかに本質的です。機能の向上に関するあらゆる理論は、「その機能の向上を起こす方法についての知識はどのようにして生まれたのか」という問題を提起します。それは最初から存在していたと考えるのは創造説です。あるいは、たまたま生じたとするのは自然発生説です。

その疑問への答えを19世紀前半に提案したのはジャン=バティスト・ラマルク(Jean-Baptiste Lamarck,1744-1829)でした。彼が提案した答えは、現在「ラマルク主義(Lamarkism)」として知られています。「生物が一生のうちに獲得する機能の向上は、子どもが受け継ぐことができる」というのがラマルク主義の基本的なアイデアです。例えば、ある個体が頻繁に使う筋肉は大きく強くなり、ほとんど使わない筋肉は弱くなると行ったことです。このような「用不用説('use-and-disuse'explanation)」はエラズマス・ダーウィンも独自に到達していました。た、ラマルクは複雑性は増大し続けるという、自然法則に組み込まれている傾向が、機能の向上を後押しするという考えを提唱しています。ラマルクは当時一般的だった自然発生説を自らの進化理論に明示的に取り入れています。自然発生により単純な生物が供給されることで、複雑な生物だけでなく単純な生物もいることを説明しています。

しかし、適応の進化を説明できるのは、単なる複雑性ではありません。それは知識でなければなりません。また、進化的適応は、一生の内に個体に起こる変化と、まったく異なる特徴を備えています。進化的適応は新たな知識の創造が伴います。個体の変化は、変化を起こす適応がすでにある場合にしか生じません。筋肉は使えば強くなるという傾向は、精緻で知識負荷的(knowledge-laden)な一連の遺伝子によって制御されています。ラマルク主義では、そうした遺伝子の中の知識が生み出された仕組みを説明できません。たとえば、トラが、毛皮にもう少し縞模様が多ければ食糧が少し増えることを、ラマルク主義的なメカニズムが「わかっていた」必要があります。また、色素を合成して毛皮に分泌し、ちょうど良いデザインの縞模様を生み出す方法を「わかっていた」必要もあります。

ラマルク主義が犯した根本的な失敗は、帰納主義と同じ論理です。どちらの考えも、新たな知識(ラマルクは適応、帰納主義は科学理論)が何らかの形ですでに経験のなかに存在している、あるいは経験から機械的に導き出されると過程しています。しかし実際にはどんなときも、知識というのはまず推量され、次にテストされなければなりません。これはダーウィンの理論でも言及されています。まず突然変異が起こり(突然変異はどんな問題が解決されるのかを考慮しない)、次に自然選択によって、将来世代で再び存在できる可能性の低い変異遺伝子が捨て去られるのです。

 

ネオダーウィニズム

ネオ・ダーウィニズムの中心となる考え方は、集団に最も広まりやすい遺伝子が、進化において有利となるということです。

ダーウィン的進化についての誤解で一般的なのは、進化は「種の利益」を最大化する、というものです。現実には、進化は種の利益も、個体の利益ですらも、最大化しません。

仮に、一つの島で、ある鳥が4月に巣作りをしているとします。特定の時期が巣作りに最適な理由は、気温、捕食者、食糧や巣の材料が手に入るかどうかといった要素を含む、さまざまなトレードオフで説明できます。あるとき一羽の鳥に、3月に巣作りをする突然変異が起きたとします。その個体は島で最も良い営巣場所を確保できるでしょう。生き残りに有利なこの遺伝子の割合は、世代を経るごとに種の中で増え、最終的にはこの遺伝子のアドバンテージは失われます。そしてこの状態は当初の状態に比べ、個体数が減少しています。したがって、個体数を最大化する(「種の利益になる」)ことに最大限に適応した遺伝子が存在するという、われわれが想像した初期の状態は、不安定です。

これに関連する誤解は、進化はいつでも適応的だという考え方です。つまり、進化はいつでも進歩をもたらす、あるいは少なくとも、有益な機能に何らかの向上をもたらして、その機能を最大化するように作用する、という誤解です。この誤解は「適者生存('the survival of the fittest')」と言われることがあり、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer,1820-1903)が生み出した言葉で、残念なことにダーウィン自身も採用しています。鳥の例で進化が種だけでなく個々の鳥も被害を受けたように、適者生存は事実として間違っています。

鳥の例で進化が達成したのはなんでしょうか。最大限に高められたのは、その環境への変異遺伝子の機能面での適応ではなく、生き残った変種が集団全体に広がる総体的な能力です。進化は、集団に最も広まりやすい遺伝子に優位に働くだけです。進化は最適でないばかりか、種と全個体にとって完全に有害な遺伝子が有利になることさえあります。集団内に最も広まりやすい遺伝子が、種に対して与えるデメリットが十分大きいと、その種は絶滅してしまいます。生物学的進化には、それを防ぐ手立てはありません。

生物とは、遺伝子が集団内に広まるという目的を達成するために用いる奴隷、あるいは道具です。ほとんどの遺伝子が自分の種とその個体に対して最適ではないにしろ、ある程度の機能面での恩恵を与えているのは偶然ではありません。

さらに、遺伝子の知識のリーチという現象を考えることができます。その個体が遺伝子の拡散のために厳密に必要とされる以上に多岐にわたる状況を切り抜けるのに役にたつことがあるのです。ラバには繁殖能力がないにも関わらず、生き続けられるのはそのためです。

ネオダーウィニズムは、その根本的なレベルでは生物学的なことについては何も言及していません。ネオダーウィニズムがベースとするのは、「自己複製子」(自分自身の複製に因果的に寄与するあらゆるもの)というアイデアです。例えば、ある種の食べ物を消化する能力を与える遺伝子は、その食べ物を消化できなければ弱るか死ぬかしてしまう状況において、生物が健康でいられるよう仕向けます。したがって、その遺伝子は、その生物が将来的に子どもを産む確率を高めるので、その子どもはその遺伝子の「複製」を受け継ぎ、広めていくことになります。

イデアもまた自己複製子になり得ます。例えば、面白いジョークは自己複製子です。面白いジョークはある人の頭に焼き付くと、その人物がほかの人々に向かってそのジョークを言うよう仕向けます。それによってそのジョークはほかの人々の頭へコピーされます。ドーキンスは、自己複製子であるアイデアのことを「ミーム」と命名しました。ほとんどのアイデアは自己複製子ではありません。自己複製子ではないアイデアは、私たちがそれをほかの人々に伝えるよう仕向けることはありません。しかし、言語や科学理論、宗教上の信念、また英国人であるといった、文化を構成する何とも言い難い心理状態、あるいはクラシック音楽を演奏する技術など、長く残るアイデアはほとんどがミームです。

ネオダーウィニズムの基本的な主張を、最も一般的な形で言うと、変異(たとえば不完全なコピーなど)をするようになった自己複製子の集団は、自らを複製することがライバルよりも得意な変種に乗っ取られてしまう、ということです。この深遠な真理は、私たちの、機能や目的の観点からの説明を好むような直観とは反します。

つまり、遺伝子に具現化されている知識とは、ライバルの遺伝子を犠牲にした自己複製の方法についての知識なのです。遺伝子はたいてい、自らが含まれる生物に有益な機能を与えることによって、こうした自己複製を行いますが、その機能についての知識は、遺伝子のなかの知識に付随的に含まれています。一方でそうした機能は、遺伝子のなかに、環境の規則性や、ときには自然法則の経験則的近似さえもコード化することによって実現されますが、この際、遺伝子は付随的に、その知識もコード化しています。

説明的でない人間の知識も、よく似た方法で進化することがあります。経験則は、次世代の利用者に完全な形で伝えられることはありません。また、長いあいだ生き延びる経験則はかならずしも、表向きの機能を最大化するものではありません。たとえば、美しい韻を使って表された規則のほうが、それよりも正確だが洗練されていない散文で表現された規則よりも、良く記憶され、繰り返し用いられる可能性があります。

説明的理論は、より複雑なメカニズムによって進化します。良い説明は変えるのが難しく、説明の伝達中に誤りが生じても、受信者がそれを検出し、修正することは容易です。説明的理論における変異の源として最も重要なのは、創造力です。人はほかの人から聞いたアイデアを理解しようとするとき、推量を行います。説明を正確に受け取った後は、それを改良しようとすることも多いでしょう。

遺伝子とは異なり、多くのミームは、複製されるたびに違った物理的形状を取ります。人々がアイデアを伝えるときに、自分が聞いたときとまったく同じ言葉を使うことはほとんどありません。しかし、私たちは伝えられているものは終始同じアイデア、つまりミームだと考えます。ほとんどのミームの場合、実際の自己複製子とは抽象的な存在です。つまり、それは知識そのものと言えます。これは原理的には遺伝子にも当てはまります。バイオテクノロジーでは日常的な作業として、遺伝子のコンピューターメモリーへの転写が行われています。その場合、遺伝子は、ある種の物理的形状で保存されています。こうした記録は、再びDNA鎖に翻訳され、別の種類の動物に移植されます。

つまり、人間の知識と生物学的適応はどちらも、抽象的な自己複製子です。それは、いったん適切な物理システムで具現化されれば、そのままであり続ける傾向をもつ情報の形態です。

ネオダーウィニズムの原則はある観点からみれば自明であるという事実は、それ自体がネオダーウィニズムの批判として用いられてきました。しかし、ネオダーウィニズムを反証するには、利用可能な最も良い説明に照らしてみれば、知識が違った方法で生まれたことを示唆するような証拠が必要です。たとえば、ある生物が、ラマルク主義や自然発生説で予測されるような、都合の良い突然変異だけを経験してきたことが観察されれば、ダーウィニズムの「ランダムな変異」という前提が反証されるでしょう。また、生物が、その親には先行する適応のない、新しい複雑な適応を持って生まれてくれば、段階的変化の予測が反証され、ダーウィニズムによる知識創造のメカニズムもまた反証されるでしょう。

 

微調整

物理学者のブライドン・カーター(Brandon Carter,1942-)が1974年に行った計算によれば、仮に荷電粒子の相互作用の力が1%小さかったら、惑星は形成されておらず、宇宙には、凝縮した物体は恒星しかなかったことになります。逆に、荷電粒子の相互作用の力が1%大きかったら、恒星は爆発しないので、恒星の外には、水素とヘリウム以外の元素は存在しなかったはずです。どちらの場合にも、複雑な化学反応は起こらないので、生命は存在しません。

カーター以降、ビックバンによる初期宇宙の膨張率など、ほかの物理定数についても、同様の結果が得られてきました。そのほどんどでは、わずかでも値が違えば、生命が存在する可能性はゼロになっていたでしょう。

この注目に値する事実はこれまで、そうした物理定数が超自然的な存在によって意図的に「微調整(finetuning)」されていた、つまり設計されていた証拠としても引き合いに出されてきました。これは新たな創造説であり、目的論的証明ですが、今度は物理法則のなかの「設計らしきもの」を基盤にしています。

第3章で石に刻んだように、問題を避けることはできません。未解決の問題はどんなときでも存在します。しかし問題は解決するものです。偉大な発見があった後でも、あるいはそういうときこそ、科学が進歩を続けるのは、偉大な発見自体が、新たな問題の存在を明らかにするからです。したがって、物理の未解決問題が存在することは、超自然的な説明の証拠にはなりません。それは、未解決犯罪の存在が、幽霊がその犯罪を行ったことの証拠にならないのと同じです。

「微調整」は説明を必要とするという考え方に対するシンプルな反論は、惑星の存在や、化学反応が生命の形成にとって不可欠であることを暗示する良い説明がないことです。

とはいえ、設計らしきものにあたるかどうかには関係なく、「微調整」は次のような理由により、正当かつ重要な科学的問題だと言えます。自然定数は生命を生み出すようにはまったく調整されていないというのが真実であり、その理由が、自然定数にある非常にわずかなずれでも、生命や知性はどうにかして進化できる(ただし環境の種類は大きく異なる)ためだとするならば、このことは自然界における未説明の規則性であり、したがって科学が対処すべき問題なのです。

物理法則は微調整されているように思えますが、本当に微調整されているとしたら、次の二つの可能性があります。その物理法則は現実のなかに(宇宙として)実在化された唯一の物理法則である場合と、別の実在の領域には異なる物理法則が存在する場合です。最初のケースでは、物理法則がなぜ現在の形を取っているのかということへの説明が存在すると考えなければなりません。その説明では、生命の存在に言及することもあれば、しないこともあります。もし言及すれば、私たちはペイリーの問題に立ち返ることになります。つまり、物理法則には生命を生み出すための「設計らしきもの」がありますが、物理法則は進化しなかったということです。あるいは、その説明が生命の存在に言及しないこともあるでしょうが、その場合には、物理法則が現在の形となる理由が生命と無関係であれば、生命を生み出すように物理法則が微調整されている理由は、説明されないままになるでしょう。

一方、いくつもの並行宇宙が存在していて、それぞれに独自の物理法則があり、その法則のほとんどが生命の存在を許していないとすれば、観測された微調整は偏狭な視点の問題でしかないことになります。定数が微調整されているように思えるのはなぜだろうかと考えたりするのは、天体物理学者が存在する宇宙のなかだけです。この種類の説明は「人間原理的推論(anthropic reasoning)」として知られています。しかし、原理は本当は必要ありません。それは単なるロジックです。

しかし、詳しく調べると、人間原理の主張が説明という仕事をやり終えることはないことがわかります。物理学者のデニス・シアマ(Dennis W. Sciama,1926-1999)による議論を考えます。

未来のある時点で、理論家たちが、物理定数の一つに関して、それがどのような範囲の数値を取れば、妥当な確率で(適切な種類の)天文物理学者が登場するようになるだろうかという計算をしたと考えます。その範囲を、たとえば137から138のあいだとします。理論家は、天体物理学者が登場する確率が最大になる値も計算しており、それがこの範囲の中間点、137.5であることがわかりました。

次に、実験家たちがその定数の値を、直接観測します。すると、おかしなことに、その値は135.7にはなりません。その理由は、ダーツで真ん中に刺さると予測するのは間違いであることと同じです。そのためシアマは、私たちがそうした物理定数の一つを測定して、その測定値が天体物理学者を生み出す最適値に非常に近いとわかっても、それは統計学的に反証されるものであって、確証されるものではないと結論付けました。もちろん、そうした値はそれでも偶然の一致なのかもしれませんが、その説明はヒースの荒れ野にあった時計はたまたまその形になっただけかもしれないと言うのと同じです。

シアマの議論は続きます。天体物理学者が登場する定数値がすべて一列に並んでいると想像した場合、人間原理的な説明によって、私たちは測定値が、その中間にも端にも近すぎない、ある典型的な値になると予想します。しかし、説明すべき定数がいくつかあれば、そうした予測は変わってきます。一つの定数がその範囲の端の近くになる可能性は低いものの、定数の数が多いほど、その定数のなかの少なくとも一つが範囲の端の近くになる可能性が高くなるからです。より多くの定数がかかわるほど、天体物理学者ありの典型的な宇宙は、彼らのいない状況に近くなります。関与する定数がどのくらいあるのかはわかっていませんが、数個だと思われるので、人間原理によって選ばれた領域における宇宙の圧倒的大多数は、その端に近いところにあることになります。したがって、人間原理的な説明から予測されるのは、宇宙が天体物理学者を生み出すのはかろうじて可能であることだとシアマは結論しています。これは一個の定数の場合の予測とは、ほぼ正反対の予測です。

一見すると、このことが今度は、別の大きな未解決科学ミステリーを説明しているように見えます。このミステリーは、エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi,1901-1954)にちなみ「フェルミ問題」と名付けられた、地球外文明はどこにあるのか、というものです。天体物理学者という現象が私たちの惑星に特有のものと考える必要はなく、同じような条件は、おそらくほかのさまざまな恒星系にも存在しています。それならば、そのなかのいくつかが、同様の結果を生み出さない理由があるでしょうか。 私たちはなぜ、他の文明や探査機、信号を目にしていないのでしょうか。

シアマの主張に照らしてみれば、この問題を解決するように思えるかもしれません。私たちの宇宙の物理定数はかろうじて天体物理学者を生み出せる数値であれば、この天体物理学者を生み出すという出来事が一度しか起こらなかったとしても驚きではありません。

残念ながら、この「微調整」による説明も、悪い説明であることがわかります。基本的な定数に焦点を当てることは偏狭だからです。1.異なる定数をもつ「同じ」物理法則と、2.異なる物理法則 のあいだには、妥当な違いはありません。また、論理的に可能な物理法則は無限に存在します。そうした物理法則がすべて、現実の宇宙において実在化されていたら、私たちの宇宙は、天体物理学者を生み出す宇宙のグループのぎりぎり端にあるのは、統計的に見て確かと言えるでしょう。そうなりえないことは、次のファインマンの主張からわかります。まず、天体物理学者を含む、あらゆる可能な宇宙のグループを考え、そうした宇宙の大多数には、天体物理学者以外に何が含まれているのか考えます。そうした宇宙の圧倒的多数では、天体物理学者の周りには、ほぼランダムな状態というカオスが存在します。ほぼランダムな状態は、間違いなく最も数が多いからです。そこで、どんな時点でもピコ秒後に私たちが殺されると言う理論が立てられますが、その観測は反証されます。そこで、別の同じような理論が立てられます。つまりそれは非常に悪い説明です。

同じことが、かなりの数の定数が関与する、ほかのあらゆる微調整についての、純粋に人間原理的な説明にも当てはまります。そうした説明から予測されるのは、私たちがいるのは、天体物理学者はかろうじて存在したかと思うと、一瞬のうちに存在しなくなるような宇宙である可能性が圧倒的に高いということです。それらは悪い説明です。論理的に可能な物理法則はすべて、宇宙として実在化されるという説は、説明としていっそう深刻な問題を抱えています。そうした無限集合を考える場合、そのなかのいくつに特定の性質があるのか「数える」ための客観的な方法がない場合が多いのです。また、天体物理学者を含んでいる、論理的に可能な宇宙のほとんどは、悪い説明である物理法則に従っています。では、私たちの宇宙も説明不可能だと予測すべきでしょうか。

こうした理由から、人間原理的な推論は、「微調整」とされるものの説明や、そのほかの観測の説明の一部なのかもしれませんが、ともすればあまりにも意図的に見えるために、偶然では説明できないものが観察される理由を、完全に説明することはできません。これが私の結論です。具体的な自然法則の観点からの具体的な説明が必要なのです。

 

なんでも同じようにうまく説明できてしまう説明は、悪い説明である

本章で議論した悪い説明はすべてつながり合っています。人間原理的推論に期待しすぎたり、ラマルク主義の仕組みをじっくり考えすぎると、自然発生に行き着きます。自然発生を真剣に考えすぎれば、創造説に行き着きます。そうなるのは、こうした説明がすべて同じ根本的な問題に対処しており、どれも変更するのが簡単であるからです。それらは互いに、あるいはそれ自体の変種と、簡単に交換できてしまい、説明としては「簡単すぎる」と言えます。なんでも同じようにうまく説明できてしまうのです。しかしネオダーウィニズムは簡単に思いつくものではなく、わずかに変更するのも簡単ではありません。

人間原理的な説明は、目的を持った構造を、選択という一つの行為の観点から説明しようとしています。それは進化とは違い、うまくいきません。微調整というパズルの解法は、私たちが観測したものを具体的に説明することになる説明の観点から得られるでしょう。ジョン・ホイーラーの言葉を借りれば、それは「非常にシンプルなアイデアなので、われわれはみな、これ以外にはありえないと言い出すだろう」ということになります。

生物圏についてのこうした悪い説明、とりわけ創造説は、創造というものを過小評価しています。優れた科学者が重要な発見を完成させた瞬間に超自然的な創造者が宇宙を作ったとしたら、その発見を実際に行ったのはその科学者ではなく、超自然的な存在だったということになります。そうした理論は、科学者の理論の発生の時点で実際に起こった、唯一の創造の存在を否定します。

そして、それは本当に創造です。ある発見が行われる前に、予測的なプロセスによって、その発見の内容や結果を明らかにすることはできません。もしそれができるなら、それこそが発見にあたるからです。つまり、科学的発見というのは、物理法則によって決定されるという事実があるにもかかわらず、完全に予測不可能なのです。ネオダーウィニズムは、ポパーの知識論と同様、実際に創造を記述しています。一方、創造説をはじめとするライバルの理論にはそれができません。

 

用語

進化(ダーウィンによるもの)(Evolution(Darwinian)):交互に起こる変化と選択による、知識の創造

自己複製子(Replicator):それ自身の複製に因果的に寄与している実体

ネオダーウィニズム(Neo-Darwinism):「適者生存」のようなさまざまな誤解のない、自己複製子の理論としてのダーウィニズム

ミーム(Meme):自己複製子であるアイデア

ミーム複合体(Memeplex):互いの複製を手助けする生物の形成。

自然発生(Spontaneous generation):先に存在する非生物からの生物の形成。

ラマルク主義(Lamarckism):生物学的適応は、生物が自らの一生のあいだに獲得し、その後、その子孫に受け継がれる進歩であるという考えにもとづいた、誤った進化理論。

微調整(Fine-tuning):物理定数がわずかに違っていたら、生命は存在しないだろうという考え。

人間原理的説明(Anthropic explanation):「問題の現象が起きる理由を誰かが疑問に思うのは、知性のある観測者がいる宇宙のなかだけである」とする説明。

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書評など

人間原理は、人類の宇宙でのポジションを理解する方法として一般によく知られていると同時に、哲学的な雰囲気のある話題です。ドイチュは淡々とこれを批判しており、なかなか面白いと思いながら読みました。シアマはドイチュの博士論文の指導教員です。ドイチュの周囲の先鋭による人間原理の議論をさらに突き詰めようという気概を感じる章でもあります。

この章ではドーキンスについても詳しく解説されました。ドイチュはドーキンスの宇宙観については前章では否定的でしたが、ネオダーウィニズムミーム論については、ほぼ彼の議論に沿い、前進を試みています。前著『世界の究極理論は存在するか』の冒頭には以下の一文が添えられています。

カール・ポパー、ヒュー・エヴェレット、アラン・チューリングリチャード・ドーキンスへささげる。本書は彼らのアイデアを真剣に受け取っている。」

実は、大のドーキンス推しなんですね。時計のメタファーは、パスツールが神の存在証明に用いたのを、ドーキンスが『盲目の時計職人』で逆手に取ったものです。同書で解説されている「イタチ・プログラム」は、遺伝子の変異と選択のメカニズムというネオダーウィニズムのアイデアの肝を、プログラムを用いて明快に説明したものです。面白いのでPythonで書き起こしてみました。


Google Colabにも貼りました。環境がなくてもブラウザで動作を確認できます。

 

人間原理という哲学問題へのスタンスも明確です。ドイチュによれば、人間原理はただのロジックであり、説明の一部になり得ることは否定していません(自分もこれは当然だと思います)。しかし、人間原理に人類がいる理由の説明を期待しすぎると、全く筋が悪くなると主張しています。ドイチュ以外でも、無数の物理定数がかかわる超弦理論への批判の一部はそうした形を取っているように見えます。

ピーター・ウォイト著,松浦俊輔訳,『ストリング理論は科学か―現代物理学と数学』(青土社,2007)


参考

パスツールの住んでいた家は現在は公開されており、自然発生説を反証する実験に使われた「パスツール瓶」もオリジナルが残っているようです。

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オリジナルのパスツール

  画像:https://coloradorotarygoestofrance.wordpress.com/2011/04/09/la-maison-de-louis-pasteur/