『無限の始まり』第3章「われわれは口火だ」
第1章と2章では、知識の創造の源は良い説明の追求であること、そして説明的知識は修正を加えながら実在に近づくことができるということが示されました。では、こうした知識の創造は無限に続くのでしょうか。あるいは本質的に有限なのでしょうか。第3章では、この疑問に答えながら人類の宇宙的な意味について論じられます。
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- 啓蒙運動以前は人間中心的だった
- 反人間中心主義:平凡の原理と宇宙船地球号
- 単純な事実として二つのアイデアは間違っている
- 道徳的側面からみても二つのアイデアはそれぞれ逆説的だ
- 二つのアイデアは収斂する
- 人々の宇宙的重要性
- 人間のリーチ
- 知識創造の3条件
- 問題は解決できる
- 人間の究極的なリーチ
- 宇宙的な枠組みにおける知識の重要性、人々の重要性
- スパーク
- 用語解説
啓蒙運動以前は人間中心的だった
古代の日常的な経験の範囲外にある実在をめぐる記述は、単に間違っているだけでなく、現代の記述とは根本的に異なる特徴が見られます。それは人間中心的であることです。冬の訪れや自然災害などは、宇宙的重要性をもつ存在が人間に対して何らかの意図を抱くことによると説明されました。その後の地球中心説では、人間は宇宙の物理的な中心へと格上げされました。説明の上での人間中心主義と物理的配置の上での人間中心主義は、その妥当性を互いに高め合いました。 啓蒙運動以前は、現代の私たちには想像もできないほど人間中心的だったのです。例外だったのは古代ギリシャの数学者ユークリッドが構築した幾何学体系であり、その考え方は当時の一般的な世界観には影響を与えなかったものの、後の啓蒙運動ではその先駆者らに多くの刺激を与えることになります。
啓蒙運動以降、幾何学だけではなく、私たちは科学のあらゆる基礎領域において、自然の説明を人々の考えや意図といった観点から遠ざけてきました。今では夜空の恒星や惑星のパターンが人間の世界の出来事に影響を与えることはないとわかっています。物理学の知識は、もっぱら素粒子や力、時空といった非人格的な実体の観点から表現されます。そしてその相互作用は自然法則を表す数式で説明されます。
自分の馴染みのある環境や視界のなかの思いがけない出来事(夜空の動きなど)を、観察対象の客観的特徴だと勘違いしたり、経験則を普遍的法則と取り違えるのは、ありがちなことです。私はそうした誤りを
反人間中心主義:平凡の原理と宇宙船地球号
人間中心的な理論の放棄は非常に実り多いものであり、反人間中心主義は徐々に、「人間は(宇宙の仕組みのなかでは)重要でない」という普遍的原理へと高められていきました。
つまり、スティーブン・ホーキングの説くように、人間は「典型的な銀河の外縁部にある、平均的な恒星を回る中規模の惑星の上に生じた化学物質の浮きカスに過ぎない」ということです。
ここでは「宇宙の仕組みのなかでは」というただし書きが必要です。それは、その化学的な「浮きカス」が自らに適用している道徳観などの価値観に照らせば、その浮きカスにも特別な意味があるのは間違いないからです。「平凡の原理」では、こうした価値観自体がすべて人間中心的だとしています。その価値観が説明するのは、「浮きカス」の振る舞いのみであり、それ自体は重要ではないからです。
人間の条件についての影響力の大きなアイデアとしては、ときとして
宇宙船地球号のメタファーと、「平凡の原理」は、どちらも科学を重視する人々のあいだで広く受け入れられており、自明の理とさえ言われるようになりました。しかし実際には、この二つはやや異なる方向の主張を行っています。平凡の原理は、地球とそこに住む化学的な浮きカスが(何の変哲もないという意味で)いかに普通であるかということを強調しています。一方、「宇宙船地球号」は、地球と浮きカスが(類を見ないほど適合し合っているという意味で)いかに普通でないかということを強調しています。
しかし、この二つのアイデアは哲学的な方法で解釈すれば簡単に収斂します。すなわち、どちらもほぼ同じ偏狭な思考である「われわれが地球での生活で得た経験は宇宙を代表する」、そして「地球は非常に大きくて、変化せず、永久に存在する」という誤解を正すものだと考えられていることです。
平凡の原理と宇宙船地球号のアイデアは、地球が小さく、はかないことを強調します。そしてどちらも人間の傲慢さに対抗しています。平凡の原理は啓蒙運動以前の人間中心主義の傲慢さに対抗しています。一方で、宇宙船地球号のメタファーは世界をコントロールしたいと願う啓蒙運動の傲慢さに対抗しています。どちらの考え方にも、私たちは自らを重要だと考えるべきではないという、道徳的要素があります。そしてどちらも、世界が私たちの略奪行為をいつまでも甘受すると思うべきではないと断言しています。
単純な事実として二つのアイデアは間違っている
二つのアイデアを注意深く検討すれば、それぞれ事実として間違っているということがわかります。宇宙にある物質は、その80%が光を放つことも吸収することもできない、目に見えない「暗黒物質」とされています。残りの20%が私たちが偏狭な意味で「通常物質」と呼ぶ類いの物質です。そして、人間や地球、恒星ほど高密度の物質は、必ずしも典型的ではありません。宇宙は大部分が真空状態です。さらに言えば、最も一般的な通常物質の状態はプラズマです。プラズマが存在するのは超高温の恒星内部です。概念上の話として、宇宙空間全体を太陽系の大きさの立方体に分割すると想像します。その一つである、典型的な立方体から観察した場合、その空は真っ黒です。最も近い恒星が超新星爆発した時でさえわずかな光も届きません。典型的な立方体の温度は宇宙背景放射と同じ約2.7ケルビンです。そして、その空間に存在する原子の密度は、1立方メートルあたり1個以下であり、銀河系の恒星間空間にある原子の密度の100万分の1にすぎません。低温で、暗く、何もない、想像を絶するほど荒涼とした環境が、宇宙では典型的なのです。
宇宙では私たちはものの数秒で死んでしまいますが、原始的な状態のオックスフォードシャー(イングランド南東部地域)でも、冬であれば数時間のうちに死んでしまう可能性があります。現在のオックスフォードシャーには確かに生命維持装置がありますが、これは生物圏がもたらしたものではありません。衣服、住居、農場、病院、電力網、下水道などから構成されたシステムは、すべて人間が作り上げたものです。想像上の宇宙船に備えられた生命維持システムとは違い、人類進化の地である大地溝帯は捕食者や寄生虫や病原菌が蔓延る過酷な環境でした。地球の生物圏が生物を維持することに「適応しているように見える」理由は、生物圏は個体を放置し、傷付け、障害を与え、殺すこと以外に安定な状況に到達する仕組みを備えていないためです。正味として、地球上にかつて存在した生物の99.9%は現在では絶滅しています。遺伝学的証拠から、私たち人類も一度絶滅をぎりぎりのところで回避したことがわかっています。生物圏は生物種の偉大なる保護者ではありません。また、私たち人類は北極地方やアマゾンのジャングルで生き残る方法を、道具、武器、火、衣服などの知識を、遺伝ではなく文化のなかで伝えることで生き残ってきました。地球は私たちに生き残るための原材料は与えてくれましたが、その原材料を別のものに変換する知識や、まして繁栄のための知識を与えてくれたことは一度もありません。
道徳的側面からみても二つのアイデアはそれぞれ逆説的だ
平凡の原理は道徳的に逆説的です。あらゆる種類の偏狭な誤解のなかから、人間中心主義だけを特別な非難の対象として選び出しているので、平凡の原理自体が人間中心的だと言えます。そして、人間中心的な論理からは、「化学的な浮きカス」の外の世界の様子については、道徳的に何も言えることがありません。いずれにせよ、人間中心主義の導入は、傲慢さによるものではなく、良い説明を探し求める方法がない中で導入された合理的な説明の方法でした。
宇宙船地球号のアイデアもまた逆説的です。このメタファーは、かつて人間が何の困難もなく暮らす時代があったことを意味します。生き延びて反映するために、絶え間なく持ち上がる問題を自ら解決する必要がなく、宇宙船の乗客のように、必要なものはすべてあてがわれていた時代ということです。実際は、老人の化石はほとんど見つかっていません。地球は私たちに何も贈り物をしていません。宇宙船地球号のメタファーでは、他のあらゆる生物種は道徳的にプラスの役割が割り当てられているのに対し、人間は唯一、マイナスの役割だとされます。しかし人間は生物圏の一部であり、道徳に反するとされる行動にしても、ほかのあらゆる種が反映の時代に取る行動とまったく同じです。違うのは、人間だけは、そうした反応が自らの子孫やほかの種に与える影響を和らげようとすることです。
二つのアイデアは収斂する
平凡の原理に関して、進化生物学者リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins,1941-)による主張について考えます。生物の特性は、環境の中での自然選択によって進化してきました。私たちの感覚が果物の色や匂い、捕食者が立てる音などに気づくように適応しているのはそのためです。そして、私たちは生き残るのに無関係な現象に気づく能力に進化が資源を浪費することはありません。そこでドーキンスは、人間の機能は、人間のサイズ、時間、エネルギーなどに近い規模をもつ、狭いグループの現象に対処するように進化したと言います。つまり、私たちの感覚が、ニュートリノやクエーサーを知覚できないのと同じく、私たちがそうした現象を理解できる理由はないはずです。私たちは幸運にもそうした現象を理解できましたが、この先も幸運が続くとは限りません。このドーキンスの結論は、平凡の原理を適用したことによる衝撃的な結論と言えます。科学の進歩は人間の脳の仕組みによって決まる限界を超えられないということです。
ここで、
世界は説明不可能だという前提はどれも、非常に悪い説明にしかなりません。説明不可能な世界は手品でごまかされている世界と見分けがつきません。さらに言えば、泡の外にある世界は泡の中の世界についての説明に影響を与えるため(そうでなければ泡はなくてもいいことになります)、泡の中の特定の疑問を質問しないように注意して初めて、泡の中の世界が説明可能になります。この考え方は地上と天界を区別していた啓蒙運動以前の知的風景と似ています。
平凡の原理と宇宙船地球号のアイデアはいずれも間違っています。私たちは朝食前に暗唱する価値のある格言として、これらの否定表現を石に刻むべきです。
人々の宇宙的重要性
啓蒙運動以降、テクノロジーの進歩は経験則ではなく説明的知識の創造に頼るようになってきています。人々は何千年ものあいだ、月に行くことを夢見ていましたが、そこに行くために必要なのは力や運動量などの目に見えない実体の振る舞いに関する理論でした。世界を説明することと、世界を制御することの関係は、偶然ではなく、世界の深遠な構造の一部です。
すべての規則性には本質的に説明があり、その規則性の説明は、自然法則か、自然法則にとって生じた結果です。そのため、自然法則で禁止されていないものはすべて、適切な知識があれば達成可能なのです。
人間がある環境で、例えば月面で、生きていけるかどうかは人間の生化学的性質には左右されません。月面であっても、空気、水、気温など偏狭なニーズについて、適切な知識があれば、他の資源を変換することによってすべて満たすことができます。私たちは地球を居心地の良い場所であり、月を遠くにある荒涼とした死の世界と考えることに慣れてしまっています。しかし、私たちの祖先は私の住んでいるオックスフォードシャーを同じように見ていたでしょう。人間というユニークなケースにとって、ある環境が居心地が良いか悪いかは、人間がどういった知識を生み出してきたかによって決まります。
知識を利用して自動化された物理学的変換現象を引き起こすこと自体は、人間だけでなくあらゆる生物の基本的な生存のための方法です。
人間のリーチ
宇宙の一部の環境では、人間が繁栄するための一番効率的な方法は、自らの遺伝子を改変することかもしれません。一部の人間中心的な間違いをした人々は、遺伝子操作された人間はもはや人間ではないと反対しますが、
天体物理学者のマーティン・リース(Martin Rees,1942-)は、宇宙のどこかに「われわれには想像できないような形態の生命や知性が存在するはずだ。チンパンジーには量子論を理解できないのと同じで、それは、われわれの脳の能力を超えた実在の側面として存在する」と推測しています。しかしそのようなことはありません。そこで問題とされている「能力」が計算速度や記憶容量のことであれば、私たちはコンピューターの助けを借りて問題とされている側面を理解することができます。しかし、ほかの形をとる知性に理解できることを私たちが定性的に不可能かもしれないという主張だとしたら、これは単に、世界が説明不可能であるということを再び主張しているだけです。
知識創造の3条件
この問題は、次のような質問に帰着します。そうした環境が存在しうるなら、そこで最低限必要とされるのは、どのような物理的特徴でしょうか?
物質が手に入ることが一つです。テクノロジーがどれだけ進んでいても、目的の物質を得るのに何らかの材料は必要です。制限のない一連の説明的知識を生み出すには、継続的な質量の供給が必要です。
また必要な変換の多く—推量や科学実験や製造プロセスなど—にはエネルギーが求められます。質量とエネルギーはある程度は互いに変換可能です。
物質とエネルギーに加えて、基本的に必要なものがもう一つあります。科学理論をテストするのに必要な情報、すなわち証拠です。地球の表面には豊富に証拠があります。空からの光という証拠は、何十億年も前から地球の表面にあふれていましたし、今後、何十億年経っても変わらないでしょう。私たちはそうした証拠をやっと調べ始めたところです。同じことは月にも当てはまります。月には質量、エネルギー、証拠といった、地球と基本的に同じ資源があります。
人間はユニバーサル・コンストラクターなので、資源の発見や変換といった問題はいずれも、与えられた環境での知識創造を制限する、一時的な要因にすぎません。したがって、
問題は解決できる
そうなると、私が石に刻むべきだと提案した、「地球の生物圏には、人間の生命を維持する能力はない」という格言は、実際には、人々にとって、「問題は避けられないものだ」という、はるかに一般的な真理のなかの、特殊なケースだと言えます。
私たちが問題に直面することは避けられません。しかし、特定の問題を避けられないのではありません。私たちは問題を解決することで生き延び、成長します。自然を変えるという人間の能力は物理法則にしか制限されません。つまり、人々と現実世界に関する、補完的で、同様に重要な真理が、「問題は解決できる」ということです。ここで解決できるというのは、適切な知識が問題を解決するという意味です。もちろん、望んだだけで知識が手に入るわけではありません。しかし原理的には知識は手に届くところにあります。二つの言葉を石に刻みましょう。
進歩は可能であり、かつ望ましいというのは、啓蒙運動の中心をなすアイデアです。進歩は、あらゆる批判の伝統と同時に、良い説明を追求するという原則の動機となります。しかし進歩にはほぼ正反対の二通りの解釈があります。紛らわしいことにどちらも「完全性(perfectibility)」と呼ばれています。一つは、仏教やヒンドゥー教の「涅槃」やさまざまな政治的ユートピアのような、完全とされる状態に達することができるという考え方です。もう一つは、あらゆる到達可能な状態は、無限に高められるという考え方です。可謬主義の立場によれば後者が支持されます。人間の進歩と完全性をめぐる、これら二つの解釈は、歴史的に啓蒙運動の二つの大きな潮流、イギリス啓蒙運動と「ヨーロッパの啓蒙運動」に刺激を与えてきました。二つの流派は、権威の否定という特性では共通していますが、重要な点で異なります。
ヨーロッパの啓蒙運動は、問題が解決可能であることは理解していましたが、問題が不可避であることは理解していませんでした。ヨーロッパの啓蒙運動は、それゆえ、知識の面でのドグマティズムや、政治的暴力、新しい形の専制政治へとつながりました。1789年のフランス革命とそれに続く恐怖政治はその典型的な例です。
一方、イギリス啓蒙運動は漸進的であり、人間の可謬性を認識していたため、ゆるやかで継続的な変化を妨げないような制度を求めていました。同時に、将来的に制限を受けない、小さな改善を行うことにも熱心でした。この取り組みが、進歩の追求において功を奏したのだと考えています。本書で「啓蒙運動」という場合には、イギリス啓蒙運動を意味します。
人間の究極的なリーチ
人間の(あるいは人々や、進歩の)究極的なリーチを調べるには、地球や月といった、資源が非常に豊かな場所を考えるべきではありません。そこで、前に議論した典型的な場所、銀河間空間へ戻ります。ここでは物質、エネルギー、証拠の3要素の供給は最小限です。鉱物の豊かな供給も、頭上からエネルギーをただで届けてくれる巨大な核融合炉もありません。自然法則の証拠を提供してくれる、空の光や、さまざまな局地的な現象もありません。そこは何もなくて、冷たく、暗い場所です。
本当に何もないのでしょうか?実際のところ、それもまた別の偏狭な誤解です。銀河間空間を太陽系サイズの立方体に分ければ、それぞれの立方体は10億トン以上の物質を含んでいます。そのほとんどは電離水素です。10億トンというのは、例えば制限のない一連の知識を創造する科学者のための宇宙ステーションや入植地を建設するには、十分すぎるほどの量です。仮にその方法を知っている人がいればの話ですが。
現在、その方法を知っている人間はいません。水素からほかの元素への変換を産業規模で行う方法は、現在は知られていません。しかし物理学者は、そうした元素変換を禁止する物理法則はないと確信しています。
温度の低さと、利用できるエネルギーがないという問題はどうでしょうか?水素の元素変換によって、核融合エネルギーを取り出せます。これはエネルギー供給としては相当多く、地球上のすべての人が毎日消費する総電力量を超える規模です。つまり、この立方体の中には、偏狭な第一印象が示すほど、資源が不足しているわけではないのです。
宇宙ステーションに不可欠な証拠の供給は、どのように行われるでしょうか。科学実験室は、元素変換によって作られる元素で建設可能です。また、化学の発見も元素変換で重要ではなくなります。生物学の現地調査は難しいものの、人工の生態系の中で、任意の生命体を作り出し、研究することができます。仮想現実空間でのシミュレーションも可能です。10億トンの物質を除いても、その立方体には微かな光が満ちています。光の中には圧倒的な量の証拠が存在し、最も近くにある何個かの銀河の中のあらゆる恒星や惑星、衛星の分布図を、10キロメートルの精度で描くのに十分なほどです。そうした証拠すべてを取り出すために使う望遠鏡には、その立方体自体と同じ幅をもつ、反射鏡のようなものが必要になるでしょう。その鏡には、少なくとも惑星を一つ作るのと同じくらいの物質が要求されます。しかしそれでさえ、私たちが考えるテクノロジーのレベルを前提とすれば、可能性の範囲を超えるものではありません。ほんの数百万トンレベルの望遠鏡でも、かなりの天体観測ができます。いかなるときでも、典型的な一個の立方体には、1兆個以上の恒星とその惑星についての詳細な証拠が同時に存在するのです。
宇宙の中の典型的な場所というのは、制限のない知識の創造に適した場所です。したがって、ほかのほとんどの環境にも同じことが言えます。そういった環境には、銀河間空間よりも多くの物質やエネルギーがあり、証拠が入手しやすいからです。クエーサーのジェットの内側では知識の創造を認めないかもしれませんが、
奇妙な話ですが、私たちの思考実験に登場した空想的な宇宙ステーションというのは、宇宙船地球号のメタファーに出てくる「宇宙船地球号」にほかなりません。ただし異なるのは、その住人は決してそれを改善しないという非現実的な前提を、私たちは除外している点です。そのため、宇宙ステーションの住人はおそらく、死をいかに免れるかという問題をずっと以前に解決しているので、「世代」はその宇宙船の仕組みとして不可欠なものではなくなっています。改めて考えると、人間が生きていく環境ははかなく、生物圏からの支えに依存しているという主張を劇的に表すには、世代宇宙船という考え方はあまりよくない選択肢でした。こうした主張は、宇宙船がもつ可能性と矛盾するからです。宇宙空間を進む宇宙船のなかでいつまでも暮らすことが可能であれば、その同じテクノロジーを使って地球の上に住むことの方がはるかに可能性が高いはずです。
宇宙的な枠組みにおける知識の重要性、人々の重要性
人々よりも明らかに重要なものは数多くあるように思えます。時空はほかの物理現象の説明のほぼすべてに出てくるので、重要です。電子と原子も同様です。そうした地位の高い仲間の中に、人間の居場所はなさそうです。人間の歴史や政治、科学、芸術、哲学、野心や価値観はすべて、数十億年前の超新星爆発の副次的影響であって、さらに言えば、別の超新星爆発により明日にでも消滅してしまう可能性があります。その超新星も、宇宙的枠組みのなかでは程々に重要といった程度です。それでも、人々や知識についてまったく触れなくても、超新星や、ほかのほぼすべてのものについて説明できるように思えます。
しかしこれはまた別の偏狭な誤解にすぎません。長期的に見れば、人間はほかの惑星に移住するかもしれませんし、知識を増やすことでこれまで以上に強力な物理プロセスを制御するようになるかもしれません。爆発の可能性のある恒星の近くに住む人々は、その恒星から物質をある程度取り除くことで、爆発を防ぎたいと考えるでしょう。これは適切な知識があれば達成可能です。おそらく、宇宙のほかの場所にいるエンジニアはすでに、そうした作業をごく普通に行っているでしょう。それゆえ、超新星の特徴が一概に、人々の存在や不在、あるいはそうした人々の知識や意図と独立であるというのは事実ではありません。
知識のもつ意味合いはさらに深いものです。知識なくして、シリコンチップは作れません。恒星は自然に生まれますが、知識を使えば、その恒星をマイクロチップに変換できます。絶対零度100万分の1度に冷えるメカニズムを説明するには、人々の関与について詳しく説明しないわけにはいきません。
それだけではありません。クエーサーが発生すると、数十億年後には、どういうわけか宇宙の反対側で、化学的な浮きカスがそのジェットの振る舞いを予測し、その理由を理解できるようになっています。それは、一つの天文学者の脳という物理的システムのなかに、ジェットという別の物理システムの正確な模型が入っていることを意味します。そこには、同じ数学的関係性と因果構造を具現化する、説明的理論が含まれています。それが科学的知識です。さらには、一方の構造が他方の構造にどのくらい似ているかという忠実度は、どんどん高まっていきます。それが知識の創造です。自然に発生するあらゆる物理プロセスのうち、そうした基本的な均一性を示すのは知識の創造だけです。
プエルトリコのアレシボには巨大な電波望遠鏡があります。この望遠鏡のさまざまな用途のうちの一つは、「地球外知的生命体探査(SETI)」プロジェクトです。これは地球外文明によって送信された電波を検知するというミッションです。SETIの観測装置は、遠く離れた恒星の軌道を回る惑星にある微妙な化学的性質という、今まで一度も検出されたことのない現象を検出することに適応しています。生物進化は、そうした適応を生み出せていません。これは非説明的知識が普遍的にはなりえない理由を示しています。非説明的なシステムでは、説明的な推量が超えている概念のギャップを超えて、未経験の証拠や存在しない現象に関与することは不可能です。
人間や人々、知識は、客観的に重要というだけではなく、本質的に飛び抜けて重要な現象だということになります。
スパーク
最後に、環境の自発的な振る舞い(知識がない状況)と、適切な種類の知識がごくわずかに届いた後のその環境の振る舞いの間にある、大きな違いについて考えます。私たちは普通、月面基地を、自給自足の状態になった後でも、地球上に由来するものと考えます。しかし、物質は長期的にはすべて月由来になりますし、エネルギーは太陽に由来しています。月面にある知識の一部だけが、地球から来たものです。仮説として、月面基地が完全に孤立しているケースであれば、地球由来の知識の割合は急激に少なくなるでしょう。月に変化を起こしたのは、物質そのものではなく、それがコード化していた知識です。そうした知識に反応して、月の物質は自らを、新しく、ますます広範囲で複雑な方法で組織し直し、以前よりも良い説明を絶え間なく作り出すようになりました。無限の始まりです。
同様に、銀河間空間の思考実験では、私たちは典型的な立方体空間に「準備をしておく」ことを想定しました。その結果、どんなときでも、銀河間空間自体が前よりも良い説明を次々と作り出すようになりました。変換された立方体は、その質量が一点に集まり、質量をエネルギーに変換しています。そこには多くの証拠がありますが、そのほとんどは立方体のなかで生み出されたものです。変換された立方体は急速に変化します。何より、変換された立方体は誤りを修正します。
とはいうものの、ほとんどの環境はまだ、どんな知識も創造していないように見えます。私たちは、地球とその近傍を除き、知識を創造している環境を知りません。私たちが目にするほかの場所の状況は、知識の創造が広まった場合に予想される状況とは大きく異なっています。しかし宇宙はまだ若いです。現在何も創造されていない環境でも、将来はそうするかもしれません。遠い未来に典型的なものが、現在典型的なものとは大きく異なる可能性もあります。
用語解説
人(人々,Person):説明的知識を生み出すことのできる実体。
人間中心主義(Anthropocentric):人間あるいは人々を中心に考えること。
基本的または重要な現象(Fundamental or significant phenomenon):多くの現象の説明において必要な役割を担う現象。またはその独特の特徴が、基本的理論の観点からみて独特の説明を必要とする現象。
平凡の原理(Principle of Mediocrity):「人間は重要ではない」とする考え方。
偏狭思考(Parochialism):見かけを現実と混同したり、局所的な規則性を普遍的な法則と混同すること。
宇宙船地球号(Spaceship Earth):「生物圏は人間の生命維持装置だ」という考え方。
コンストラクター(Constructor):それ自体は正味の変化をまったく被ることなしに、ほかの物体にさまざまな変換を起こすことのできる装置。
ユニバーサル・コンストラクター(普遍的な建設者,Universal constructor):適切な情報があれば、あらゆる原材料に、物理的にあらゆる変換を引き起こせるコンストラクター。
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書評
本章の中でのドーキンス批判は、おそらく2005年TED Globalでの講演がもとになっているのではないかと思います。二人の講演はいずれも見応えがあります。順番にどうぞ。
その後登壇したドイチュの講演
このドイチュの講演内容は本章での議論そのものです。
2018年には上のインタビューを踏まえてさらに掘り下げた議論がなされています。
ドイチュはこのインタビューのなかで
「140億年間、宇宙は退屈な物理現象の繰り返しでした。ここでは大きいものが小さいものにほぼ一方的に影響を与えます。そして、最近になり、相転移(phase change)が起こり、創造性が生まれました。 相転移の後は、小さなものが大きなものに影響を与えるようになりました。決定的な要因は力、質量、エネルギーではなく、情報です。さらに言えば、
と述べます。知識の定義は現在のところ、これが最も良いと思います。本章で詳説されたコンストラクターという単語は「コンストラクター理論」でのそれと同じ意味でしょう。