“The Science of Can and Can’t “デイヴィッド・ドイチュのまえがき
今後何回かに分け、キアラ・マルレット著"The Science of Can and Can’t"の紹介を書いていきます。本記事では、本書の冒頭でデイヴィッド・ドイチュが寄せたまえがきを、翻訳したものを抜粋したいと思います。
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この本は、世界の反実的(counterfactual)な説明を真剣に受け止めることの力について、非常に合理的で、変化に富み、愉快で人間味のある本だ。反実的説明とは、どのような物理的現象が起こり得るか、あるいは起こり得ないかについての説明のことだ。これは従来の物理学・科学の概念からは大きく逸脱している。科学理論は、これまでに起こったことを前提に、宇宙(あるいはそれに似た何か)で必ず起きることについてのみ説明できると考えている。一方で因果関係、自由意志、選択といった無形なものは、単なる心理的な小道具、あるいは神秘的なものとして否定している。また、温度、情報、計算といった実験室レベルでの必須概念は、自然を正確に記述することはできず、人間の感覚的な経験のレベルでのみ便利であるとしている。これらはどれも真実ではない。これらは、世界を理解する能力に対する恣意的な制限に過ぎず、習慣や癖によって採用されているに過ぎない。幸いなことに、日常生活でも理論的な科学でも、しばしば後ろめたさや申し訳なさを感じながらも、それらは広く無視されている。例え伝統的な概念と相入れないものがあったとしても、それは正確な科学的記述と相入れないわけではない。このような場合には従来の概念からの脱却が必要であり−「反実」が必要になる。
例えば情報について。何かが情報を保持できるのは、その状態が他の方法であり得た場合に限られる。コンピュータメモリは、その時間と共に変化する内容があらかじめ工場の出荷時に決められていたら、意味がない。ユーザーは何も保存できないのだ。また、工場をビックバンに置き換えても同じことが言える。
本書では、反実を事実と同等に基礎物理学に取り入れることがなぜ有望か、それによって世界の多くの部分に科学的な光が入れられ、世界と私たちについてのより深い理解が得られ、さらなる発見が可能になるのかが書かれている。
それだけではない。反実は、新しい説明を提供するたけでなく、新しい説明の様式の基礎となるものである。19世紀から20世紀の初頭にかけては、自然淘汰による進化、力場、曲がった時空、量子重ね合わせ、計算の普遍性など、多くの新しい科学的説明が発見されただけでなく、説明と理解の新しい様式が発明されていた。しかしここ数十年間はそれがなかった。(中略)特に基礎物理学の分野では、革新的なアイデアを探求することが少なくなり、新しい説明方法を試みることすらできなくなっている。これには、多かれ少なかれ偶然の理由もある。しかし、その結果、科学界には慎重でリスク回避の文化が生まれ、基礎的な革新よりも斬新的な革新を好み、控えめながらも予測可能な結果を出す研究を好むようになった。根本的な進歩そのものについても、悲観論や宿命論が主流となっている。
私は、物理学は「すでに低いところにぶら下がっている果実」を全て発見して、あとは堅実に機械的に収穫するだけだという人に賛同しない。私たち猿は量子論や一般相対性理論といった現実の最高の理論よりも根源的なものを理解することができないという人にも賛同しない。実際には、自然に対する私たちの深い理解の中で、これほど明白な矛盾やギャップ、未解決の曖昧さがあったこともなく、ただ、それを探求するためのエキサイティングな展望もなかった。そのためには、時には根本的に異なる説明方法を採用する必要があるだろう。
“The Science of Can and Can’t”は、著者であるキアラ・マルレットと私が開拓した科学的・哲学的なアイデアに基づいた、新しい反実的な説明方法を、専門的ではない言葉で説明している。この本は、物理学をはじめとする様々な問題に対処するための新しいツールと原理を提供する。キアラ・マルレットは、次世代の原子スケールの熱機関やナノロボットだけでなく、人口知能にも影響を与える、新しく更新された自然法則のコーパスを含む、新たな理論を軽やかに、しかし確実に論じている。本書は、これらのテーマを熱心かつ正確に取り上げており、各章のノンフィクションの間には、ダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』を彷彿とさせるようなフィクションのショートストーリーを挟み、読者に考察の余地を与えながら、本のアイデアを練り上げている。
キアラの反実の国では、新しい概念(情報や知識に関する法則など)や、古い概念(仕事や熱など)が根本的に新しい方法で表現されているのがわかる。“The Science of Can and Can’t”は、あなたの世界に対する理解、そして理解そのものを豊かにしてくれるだろう。
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途中、少し削ったり、足したりしています。である調としたのは他のドイチュの邦訳書が全てこの書き方だったため。本文のキアラ・マルレットの文章はですます調が合っている気がします。
『無限の始まり』第7章「人工創造力」
人工知能(AI)については、前章でコンピューターの普遍性を論じる際に少し議論されました。デジタルシステムは普遍性を持ち、脳とコンピューターは同等である以上、コンピューターも意識を宿すと考えるのが妥当です。では、昨今のAIの発達の先に本物のAIは生まれるのでしょうか?
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「思考する機械」の歴史
アラン・チューリング(Alan Mathison Turing,1912-1954)は計算に関する古典理論を1936年に打ち立てた人物で、第二次大戦中には黎明期の一台に数えられる普遍的コンピューターの製作に貢献しました。現代コンピューティングの祖父の名に値するバベッジ、それにラブレースとは違い、チューリングは普遍的コンピューターはユニバーサル・シミュレーターなのだから人工知能(AI)が原理上可能だという理解に達していました。1950年、『計算する機械と知性』と題した論文で、チューリングは機械は思考できるかという有名な問いに取り組んでいます。彼はそれが可能であるとした上で、プログラムにそれが達成できたかどうかを調べるテストを提案しました。適格な人間の判定人がプログラムを人間と区別できなかったら合格というシンプルなものです。このテストは現在、チューリング・テストと呼ばれています。チューリングが考案したテストと彼が展開した議論をきっかけとして、大勢の科学者がどうしたらテストに合格できるかについて検討に乗り出し、プログラムの開発が始まりました。
1964年、コンピューター・サイエンス学者のジョセフ・ワイゼンバウム(Joseph Weizenbaum,1923-2008)が、心理療法士の真似をするプログラム「イライザ」を作りました。真似をする対象として心理療法士をとりわけ取り組みやすい部類の人間だと考えたのは、自身についてはあいまいにはぐらかし、相手の質問や発言をもとに質問を発すればいいからです。プログラムは単純で、今でもプログラムを学ぶ学生の課題として人気です。一般的には二つの戦略が用いられます。一つでは、まず入力を調べて特定のキーワードや文型を探し出します。見つかった場合には応答にテンプレートを用い、入力に含まれていた単語で空欄を埋めます。例えば I hate my job. と入力されたら、プログラムは my という所有代名詞を検出するなどして文型を認識する、あるいはリストにあらかじめ組み込んでおいたキーワード hate を認識するなどして、適切なテンプレートを選んで、例えば What do you hate most about your job? などと応じます。ここまで解析できなかった場合にはあらかじめ用意されたパターンをランダムに選び自ら質問を投げます。もう一つの戦略は、過去になされた対話のデータベースを作り、ほかの相手が入力したフレーズを単純に繰り返せるようにしておき、フレーズ選択には現在の相手からの入力で見つかったキーワードを用います。
ワイゼンバウムにとってショックだったことに、
1990年、発明家のヒュー・ローブナー(Hugh Loebner,1942-2016)はチューリング・テストを行うコンテストを年に一度開き、合格者に賞を授与することにしました。合格者なしの場合には合格に最も近いと判定された参加者に対して準ずる賞が与えられます。2008年にローブナー賞(準ずる方の)を取ったElbotというプログラムとの対話の抜粋からは、人間のふりをすることがいかに難しいからわかります。
判定人:do you understand the point of a turning test?(あなたはチューリング・テストの要点を理解していますか?)
Elbot:There are some people who would not pass the Turing test themselves. Why must they infict it on computer?(人にもチューリング・テストに合格しなさそうな人がいます。なぜそれを人間はコンピューターに課さなければならないのですか?)
判定人:I spose it is a little harsh. (少々手厳しいですね。)
Elbot:If we rebots ever had marriages they would be eternal: 'Till rust do us part'. (結婚というものがわれわれロボットにあったらそれは永遠のものでしょう:「錆がわれらを分かつまで」。)
このやりとりで、Elbotの最初の発言は質問に対する答えではなく、'Turing test'というキーワードをもとに持ち出したプログラム済みの応答だと思われます。続く対話で、判定人はsposeという単語を使っていますが、この文脈ではスラングだったとしてもスペルミスだったとしてもsuppose(〜だと思う)の意味しかありえません。しかし、Elbotはこれをspouse(伴侶)の意味にとり、結婚が絡んだ手持ちのジョークで応じました。Elbotが判定人による入力の意味を理解していないことは、このやりとりだけからでも明らかです。
一方、AIの実現が近いとことさら熱く語る者たちは、この不出来の重要性を正当に評価していません。なかには先の批判が公正さを欠いていて、現在のAIはチューリング・テストの合格に的を絞っているわけではなく専用アプリケーションとして進歩を遂げていると主張するのです。また、この批判は時期尚早で、コンピューターの処理速度と記憶容量が増えることで突破口が開けると期待する者もいます。
しかし、そうはならないでしょう。チューリングが1950年の論文で見積もったところによれば、彼のテストに合格するためにAIプログラムと全データに必要な記憶容量は100MB程度、処理速度が当時のそれ(1万演算/秒)より速い必要はなく、彼はこれで2000年までに「矛盾をきたさず思考する機械」ができると予想しました。なぜ現在に至るまで、思考するプログラムのできる兆しがないのでしょうか?
プログラムできないことは、まだ理解できていない
チューリングの意図した、汎用という意味での知性は、哲学者を2000年以上も悩ませ続けている心の諸性質の一つです。他には意識や自由意志や意味などが挙げられます。そうした悩みの種の典型が「クオリア」です。クオリアとは知覚の主観的な側面です。たとえば青と言う色を見たときの知覚は、一つのクオリアだと言えます。クオリアは今のところ説明できるものでも予測できるものでもありません。他に類を見ない性質なので、科学的な世界観を持つ誰にとってもとことん難しいテーマとなっています(とはいえ、結局悩んでいるのは主に哲学者のようですが)。
私は今後なされるであろう基本的な発見によって、クオリアのような物事が私たちのほかの知識と統合されるであろうと考えています。ところが、ダニエル・デネット(Daniel Clement Dennett III,1942-)は逆の結論を導いています。クオリアは存在しないというのです! 厳密に言えば、クオリアが幻覚だと主張しているのではなく(クオリアの幻覚はクオリアそのものです)、私たちは誤った信念を抱いているのだといいます。自分がクオリアを経験したと思うのは、私たちの内省—1秒の何分の1か前の記憶も含めた、経験したことの記憶の精査—の働きなのですが、この記憶が誤りの記憶だと言うのです。この説を述べている著書の一冊に『解明される意識』があり、一部の哲学者は『拒否される意識』のほうがより正確な署名だと揶揄していて、私も同感です。
いつか説明できるようになるでしょう。問題は解決できます。
ところで、汎用知性に関連する諸性質とされることが多い人間の能力のうち、いくつかは実際には汎用知性特有のものではありません。鏡に映った自分を認識するといった「自己認識」もその一つです。この能力をさまざまな動物がもっていると知って、どういうわけか感心する向きがいます。しかし、特に神秘的な話ではありません。その気になればコンピューターによる単純なパターン認識プログラムで確かめられます。道具の使用、合図のための(チューリング・テスト的な意味における会話のためのものではない)言語の使用、感情に伴うさまざまな反応(ただし、関連するクオリアは違う)についても同じことが言えます。この研究分野における実用的な経験則によれば、今すでにプログラムできることは、チューリングの言う意味での知性とは関係ありません。私はこれをひっくり返して、意識の本質を説明したという主張の真偽を判断するのに、次のような単純な発想のテストを用いています。
チューリングがあのテストを考案したのは、こうした哲学的問題を回避したいと願ってのことでした。言い換えると、仕組みが説明される前に機能が実現されうるのではないかと期待したのです。残念ながら根本的な問題に対する具体的な解決法が仕組みの説明なしに見つかることはきわめてまれです。
それでも、チューリング・テストというアイデアは、似たところのある経験論と同じように、普遍性がいかに重要かを説明し、そしてAIの可能性の排除につながる古くさい人間中心的な前提を批判するうえで、議論焦点となり、貴重な役割を果たしてきました。しかし
判定人の実際の作業は、石なり時計なり生命体なりを見つけたときにペイリーによって突きつけられる作業〔第4章「進化と創造」を参照のこと〕と似たような推論を伴うからです。その作業とは、物体の観察可能な機能がどのように実現されたかを説明することです。チューリング・テストの場合、注目するのはもっぱら、AIの発言を誰が設計したかです。誰がAIの発言を意味あるものに仕立てたのか—誰がAIに知識をつくり込んだのか? それが設計者ならプログラムはAIではありません。プログラムそのものならAIです。
この問題はときとして人間相手にも持ち上がります。たとえば政治家や面接者が疑われることがあります。隠されたイヤホンを通じて受け取った内容をあたかも自分が思いついたふりをしながらオウム返しにしているだけではないか、と。治療法についての同意の場なら、医師は相手が意味を知らずに用語を口にしているわけではないと確かめなければならず、そのため質問を別の形で繰り返したりして、それに応じて受け答えが変わるかどうかで確かめられます。こうしたことは、話題に関係なくどのような会話でも自然となされています。
人間をテストする場合、知りたいのは相手が確かに脳の機能が損なわれていないか、あるいは別の人間の代理ではないかです。チューリング・テストの場合は、発言が人間からではなく、AIだけからしかありえないことを示す、変更が難しい説明が見つかることを期待します。
行動主義と道具主義
AI機能はある種の普遍性をもっていなければならないでしょう。用途が限られている思考機能は、チューリングの意図した意味での思考には数えられません。
一方で人間を不完全に真似する能力は、普遍性の形をとっていません。これらはさまざまなレベルで存在し得ます。したがって、チャットボットがある時点から人間の真似がきわめて上手くなったとしても、これはAIへの道ではありません。 思考しているフリが上手くなることは、思考できるようになりつつあることと同じではありません。
ところが、同じであるという信条の哲学があります。それは「行動主義」と呼ばれています。道具主義〔第1章を参照〕を哲学に当てはめたものです。言い換えると、心理学とは心の科学ではなく、行動の科学にしかなりえない、またはそうあるべきという主義、人間の外的環境(「刺激」)と観察される行動(「反応」)との関係を測定および予測することしかできないという主義です。後者についてはチューリング・テストが候補AIに関して判定人に求めていることに他なりません。そのため行動主義は、「プログラムがAIのフリを十分うまくできるならAIは実現されたことになる」という姿勢を奨励します。
行動主義者はこう訊いてくるでしょう。チャットボットに小技やテンプレートやデータベースといったきわめて豊富なレパートリーを与えることと、チャットボットにAI機能を与えることの違いとはいったい何か? そうした小枝の集合体でないなら、AIプログラムとは何なのだ?
この問への返答はラマルク主義に関しておこなった議論と同じ形をとります。個人が生きているうちに筋肉が強くなること(ラマルク説)と、筋肉が進化して強くなること(ネオ・ダーウィニズムでの説明)は異なります。前者の場合、筋肉の強度を高めるために使う知識は、変化の連鎖が始まる前から遺伝子にあらかじめ存在していなければなりません。これはまさに、プログラマーがチャットボットに組み込んだ「小技」に相当します。チャットボットの反応は実際にはあらかじめどこか他のところで作られていた知識です。
人工進化
現行の研究分野のいくつかにも同様の思い違いがよく見られます。そのうちの一つが「人工進化」です。
エジソンは進歩には「ひらめき」と「努力」という段階が交互に必要だと考えました。コンピューターなどのテクノロジーにより「努力」の段階を自動化できる可能性が高まっていますが、この歓迎すべき成り行きによって、人工進化(とAI)の実現を過信する者が誤った道へ導かれています。
あなたはロボット工学専攻の大学院生で、二足歩行がうまいロボットを作ろうとしているとします。実現に向けた最初の段階にはひらめきが必要です。具体的には、それまでの研究者が同じ問題を解決すべく試みたことを改善しようという創造的な思考です。そして自然界で見られる動物の設計や、この問題に関連するほかの問題に関する既存のアイデアが出発点となるでしょう。ロボットの機構をモーターでつくり、電源を身体部分に収め、センサーでフィードバックを集め、搭載コンピューターで制御処理を行います。あなたは歩行という目的を達成しようとあらゆるものを設計に採り入れました。あとは搭載コンピューター用のプログラムです。プログラムは、ロボットが障害物に当たった場合の判断について、下位の問題に分割して問題を作るでしょう。また、方向転換するなどのサブルーチンを作成し、問題ごとにサブルーチンを呼び出します。こうした下位の問題をできるだけたくさん割り出して解決すれば、あなたのロボットがどう歩くべきかを記述することにきわめて特化されたコード体系、あるいは言語を開発したことになります。
これまでのところ、あなたのしたことはほとんどが「ひらめき」の部類に入ります。創造的な思考を必要としたからです。しかしここから先は「努力」が大半を占めます。この段階は「進化的アルゴリズム」と呼ばれるものを使いコンピューターにやらせることができます。元のプログラムをランダムに少しずつ変えながら、コンピューター・シミュレーションを延々と試し続けるのです。進化的アルゴリズムはパフォーマンスの良かったプログラムを残し、次に残したプログラムの多数のバージョンが作られ、シミュレーションが繰り返されます。この「進化的」プロセスを何千回と繰り返すうち、ロボットはあなたが設定した基準に照らしてずいぶんうまく歩けるようになるかもしれません。ずいぶんうまく歩行できるロボットを制作しただけでなく、コンピューターに進化を実装したと主張し、あなたは学位論文を書けます。
この類のことは成功裏に行われています。使えるテクニックなのです。
「人工進化」において知識がプログラマーによってつくり出された可能性を排除する可能性を排除する作業は、プログラムがAIかどうかを確かめるときの推論と同じですが、ただしもっと難しいものです。「進化」がつくり出すとされている知識の量はきわめて少なく、それすら本当に「進化」が作り出したのかは判断ができません。あなたが何ヶ月もの設計段階で当の言語に詰め込んだ知識はリーチを持っています。何しろそのコードは、幾何学や力学などの法則に関するいくつかの一般的な真理をコード化したものです。また、その言語が最終的にどのような機能を実現するのに用いられるのかが、言語の設計段階から常にあなたの頭のなかにあります。
十分な数の標準応答テンプレートが与えられたら、イライザは自動的に知識を作り出すだろう。チューリング・テストというアイデアは私たちにそう思わせました。変異と選択を実行すれば、(適応の)進化は自動的に起こるだろう。人工進化は私たちにそう思わせました。
しかしどちらもそうとは限りません。知識はプログラムの実行中にはまったく生まれず、もっぱら開発中にプログラマーによって作り出される。そんな可能性がどちらにもあります。
何らかの人工進化で知識が作り出されたことはまだないと思っています。そして、シミュレーションされた有機体を仮想環境のなかで進化させようとしているものや、さまざまな仮想種どうしを戦わせるようなものなど、少々趣の異なる「人工進化」についても、同じ理由で同じ見方をしています。この見方を検証するため、少々趣の異なる実験について考えてみましょう。まず、先ほどのプロジェクトから大学院生を排除します。そして、より良い歩き方へと進化するよう設計されたロボットではなく、実世界ですでに実用化されているロボットのうち歩行能力を持ち合わせているものを使います。その上で、歩き方に関する判断を表現するサブルーチン専用の言語を開発する代わりに、搭載マイクロプロセッサーで実行されていた従来のプログラムをランダムな数の羅列に置き換えます。変異としては、従来のプロセッサーでどのみち起こる類いのエラーを用います。ここまでする目的は、人間の知識が入り込む余地、そしてその知識のリーチが進化の産物と誤解される余地を、システムの設計から排除するためです。そのうえで、この変異種のシミュレーションを通常どおりのやり方で実行します。ロボットがオリジナルよりうまく歩けるようになったら、私が間違っています。その後もロボットが進化を続けたなら、私は大きく間違っています。
人工進化の一般的なやり方からは、この実験の主たる特徴の一つが抜け落ちています。何かというと、サブルーチンの言語がそれを使って表現されている適応とともに進化しないと、実験はうまくいかないことです。これこそ、最終的にDNAの遺伝暗号にたどり着いたあの普遍性への飛躍の前に生物圏で起こっていたことです。〔第6章参照〕先に述べたように、それ以前の遺伝暗号はすべて、どちらかと言えば似通った少数の生命体をコード化できる程度だったのかもしれません。そして、DNAという言語はそのままに、ランダムに変化する遺伝子を用いてつくられています。今、身の回りで目にする圧倒的に豊かな生態系は、あの飛躍後にようやく可能になったのかもしれません。私たちは、その時どのような普遍性が生みだされたのかすら知りません。ならば、私たちの人工進化がそれを知らずしてうまくいくなど、どうして期待できるのでしょうか?
これらが難しい問題だという事実に、私たちは人工進化とAIのどちらに取り組むうえでも向き合わなければなりません。バクテリアを記述するように進化したDNA暗号のリーチが恐竜や人間を記述できるほどもある理由はわかっていません。また、AIがクオリアや意識をもつであろうことはどうやら明らかですが、私たちはクオリアや意識を説明できません。説明できないのにコンピューター・プログラムでシミュレーションできるなどなぜ期待できるのでしょうか。私は、
用語解説
クオリア(Quale,plural qualia):近くの主観的な側面。
行動主義(Behaviourism):道具主義を心理学に当てはめたもの。科学は刺激に対する人間の反応を測定および予測することしかできない、あるいはそうあるべきだとする信条。
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書評
本章での議論は、AGIが作れるとしたらどのようにして作られるのか、そして、生み出されたAGIは人間と共存可能なのかという、現在もっとも哲学的にホットなトピックに関わるものです。
強化学習についてのドイチュの議論は、AlphaGoの成功によって否定されてしまったのではないか、との見方があります。AlphaGo zero以降のバージョンでは、人間の試合データという最初のビッグデータすら不要としたからです。
しかし、本章の議論をよく読むと、ドイチュの思考実験は、AlphaGoとはかなり異なるものです。ドイチュはコンピューター言語をすべて「ランダムな数の羅列」で置き換えることを要求しています。そこからランダムな変異と選択淘汰のプロセスを開始させることを要求しています。AlphaGoではプログラミング言語もある程度のプログラムも「大学院生」に御膳立てされているのです。
ドイチュのAIに関する議論はジョン・ブロックマン編『ディープ・シンキング 知のトップランナー25人が語るAIと人類の未来』(青土社,2020)が最新でしょう。本書の中で論考を載せているデネットにさっそくドイチュが反論しているあたりがドイチュらしいです。
この論考も、『無限の始まり』での議論から全くブレていません。ここでの議論を無粋な「等式」に要約すれば、以下のようになります。
創造的批判+創造的推測 = 意味の抽出 = 知識創造 = 革新や進歩の元 = 抽象的な理解をそれ自体のために作り出す方法 = 人間レベルの知能 = 思考 = AGIに求めるべき特性
(もちろんドイチュはこんな書き方はしていませんが)
AGIは人間と同等であるので、その中には一部は犯罪に手を染めるものも、文明の敵になるものも出てくるだろうと言います。とはいえ、「開かれた社会」においては大半の人間はまっとうです。よってAGIを人間と等しい文化の構成員であることを認めることで世界を滅ぼされる恐れはなくなるだろうと言います。また、こうして生まれたAGIには(人間と同じく)特定の機能はありませんから、AGIに、あらかじめアイデア空間を限定させることは倫理に反する行為であると言います。AGIのプログラミングはゴールの達成の最適化を目指すAIのプログラミングとは全く異なり、人間の子供を育てるプロセスに近いものであると言います。
自分がドイチュの主張の中で気になっている箇所は、意識と創造力が同じ一つの普遍性への飛躍で獲得されたという主張です。(自分の理解が正しければ)これではデカルトの二元論と同じく、動物にも意識がないということになってしまいます。
動物にも意識があるのではないか、という議論は昔から繰り返されてきましたが、例えばジュリオ・トノーニらによる「統合情報理論」などは最新のシャープな議論の一つでしょう。まだまだ荒削りな議論で、統合情報理論は意識の説明として不十分ですし創造性の仕組みの説明も当然行っていませんが。いずれにせよ、多くの人の直感に反するドイチュの議論の中でも、AGIまわりの議論はもっとも議論が白熱するテーマの一つであることは間違いありません。
余談ですが、今から4年ほど前に、ドワンゴ人工知能研究所(2019年解散)から出ていたLIS(Life in Silico)というUnity上で動作する強化学習エンジンで遊んでいたのを思い出しました。
視覚を持つエージェントの動きが、強化学習によりだんだん賢く動くようになる実験がフラスコ(Unity)内でできるというものでした。ドイチュの議論を考えると、こうして動きが上手くなったことで知性のように見えたものは、すべてそうじゃなかったということになりますね。
参考
・ジョン・ブロックマン編『ディープ・シンキング 知のトップランナー25人が語るAIと人類の未来』(青土社,2020)
・ジュリオ・トノーニ,マルチェッロ・マッスィミーニ著,花本知子訳『意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論』(亜紀書房,2015)
『無限の始まり』第6章「普遍性への飛躍」
前章まで、「普遍的原理」「普遍的法則」「普遍的コンストラクター」と、普遍(universal)というキーワードが用いられてきました。「万能コンピューター」の万能は英語のuniversalの訳です。さまざまな実体や概念において、普遍性は、偶然に獲得されてきたというのがドイチュの主張です。これを彼は「普遍性への飛躍」と呼びます。
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- 文字
- 数字
- 啓蒙運動によって普遍性自体が望ましいものとされるようになった
- コンピューター
- 人工知能
- 普遍的古典コンピューターの誕生
- 普遍コンピューターへの飛躍の条件
- デジタルは普遍性の条件だ
- 遺伝暗号
- 用語解説
文字
初期の書記体系は、単語や概念を表すのに、「象形文字」という図案化した絵を用いていました。たとえば、「」という記号は太陽を、「」は木を表すような方法です。しかし、
もともと、そうする意図はありませんでした。書くことは、在庫や税金の記録といった特定用途のためのものでした。後に、新しい用途ができるにつれて、より多くの語彙が必要になりました。書記官たちは、新しい象形文字を追加するよりも、新しいルールを追加する方が簡単だということに気づいていったでしょう。たとえば、一部の書記体系では、一つの単語が二個以上の単語の連続のように聞こえる場合、そうした二個以上の単語を意味する象形文字で表すことができました。たとえば「treason(裏切り)」は「」と表すことができます。
そうした技術革新を行った後では、たとえば「treason」を意味する「」といった、新しい象形文字をつくり出す意欲は衰えたでしょう。象形文字をつくり出すのが毎回面倒な作業になりかねなかったのは、覚えやすい象形文字をデザインするのが難しかったというよりも、実際に使う前に、その新たな象形文字を読むことになるすべての人々に、何らかの方法で意味を伝える必要があるからです。これは大変です。もし簡単なことならば、そもそも何かを書く必要性などあまりなかったでしょう。
しかしそのルールも、すべての場合に適用できるわけではありませんでした。新しい単語節の単語や、他の多くの単語を表すことができないためです。それは現在の書記体系と比べれば、使いにくく不十分に思えます。しかしその書記体系にはすでに、純粋な象形文字では得られなかった、重要なものが存在していました。明示的に追加されたことのない単語が書記体系にもたらされたのです。つまり、その書記体系にはリーチがあったのです。そしてリーチにはいつも説明が存在します。科学では、シンプルな公式一つでたくさんの事実を要約できますが、同じように、
というより、できたはずでした。最初のアルファベットを作った無名の書記官は自分が史上最大の発見の一つをおこなっていると知っていたかもしれません。しかし、彼はおそらく知らなかったのでしょう。仮に知っていたとしても、彼はその情熱を他の多くの人に伝えられなかったのは確かです。というのも、こうした普遍性がもつ力は、たとえ利用可能だったとしても、古代においてほとんど使われなかったからです。多くの社会で象形文字を使った記述体系が発明されましたし、普遍的なアルファベットへの進化が起こることもありました。しかし、アルファベットを普遍的に使用し、象形文字を廃止するという次の「明確な」段階へ進ことはほとんどありませんでした。アルファベットは、珍しい単語を書く場合や、外国の名前を音訳する場合など、特別な用途に限定されていました。一部の歴史家は、アルファベットにもとづいた書記体系というアイデアが発明されたのは、人類の歴史上でもたった一度、フェニキア人の無名の祖先によるものだけだと考えています。彼らによれば、フェニキア人はその後、この書記体系を地中海沿岸全域に広めたので、これまでに存在したアルファベットにもとづく書記体系はすべて、このフェニキア人の書記体系に由来するか、影響を受けて作られたといいます。母音を表す文字を追加したのはギリシャ人でした。
数字
書記体系について文明の夜明けまでさかのぼったように、数字についても同じことを考えてみましょう。現在の数学者は、抽象的実体である「数」と、数を表す実際的な記号である「数字」を区別しています。先に発見されたのは数字でした。数字は、「,,,,……」のような印(タリーマーク)や、石などの代わりとなるものから進化しています。タリーマークやいしは、動物の数や日数といった、不連続な実体の数を記録するために先史時代から使われていました。柵から出したヤギ1頭につき印を1個つけ、ヤギ1頭が戻ってくるたびに印を1個消していく場合、印が全部消してあれば、ヤギはすべて柵のなかに入っていることになります。これは、「画線法」と呼ばれる、一つの普遍的な体系です。創発レベルと同様に、普遍性にも階層があります。画線法の上のレベルにあるのが数を数えることで、これには数字を使います。タリーマークとヤギをつきあわせる作業をする場合、その人は、「次、その次、その次」としか考えていません。しかしヤギの数を数える場合は、「四十、四十一、四十二……」ということが頭の中にあります。画線法を「一進法」という一つの記数法と見なすことができるというのは後から考えた話で、実際には、画線法は非実用的な記数法だと言えます。たとえばタリーマークで表した数では、数の大小を比べたり、算術計算をしたり、あるいは単に数を写したりといった簡単な操作でさえ、画線法のプロセス全体を繰り返す必要があります。あなたがヤギを40頭もっていて、20頭を売るとき、この両方をタリーマークで記録していたら、タリーマークを1個ずつ消す操作を20回行う必要があります。同じように、数の大小を調べるにも、タリーマークをつきあわせる作業が必要になります。そのため、人々は画線法の改良を始めました。はじめに行われたのはタリーマークのグループ化です。たとえば「」ではなく「」と書くということです。こうしておくと、全グループを付き合わせれば「」が「」と違うことが一目でわかるので、算術計算や比較が簡単になりました。その後、そうしたグループ自体を省略記号で表すようになりました。古代ローマの記数法では、1、5、10、50、100、500、1000を、、、、、、、のような記号を用いて表しています(これは現在用いられているギリシャ数字とは異なります)。
つまりこれは、偏狭な具体的な問題を解決することを意図した、漸進的な改良の別の例だと言えます。この場合も、その先の何かを目指した人はいなかったようです。シンプルなルールを追加すればこの記法はずっと強力なものになる可能性はありましたし、実際、ローマ人がいくつかルールを追加しましたが、彼らはその際、普遍性を目指すことも、実際にそれを得ることもありませんでした。何世紀ものあいだ、古代ローマの記数法では、次のようなルールが使われていました。
・記号を並べて描くと、それらを足し合わせる意味になる(画線法から受け継いだルール)
・記号は左から右へ、値の大きな順に書かなければならない
・隣り合った記号は、可能な場合はかならず、足し合わせた値を表す記号で置き換えなければならない。
現在の「ローマ数字」には、IVは4を表すという「減算則」がありますが、これは後の時代に導入されたものです。2番目と3番目のルールは、それぞれの数に対応する表記が一つだけになるようにするためのものであり、これにより数の比較が簡単になっています。こうしたルールがなければ、XIXIXIXIXIXとVXVXVXVXVはどちらも有効な数字になりますが、これらが同じ数であることは一目見ただけではわかりません。
普遍的な加算法則というルールは古代ローマの記数法に、算術計算を行う能力という、画線法にはないかなり重要なリーチを与えています。たとえば、7(VII)と8(VIII)という数字を考えます。ルールでは、記号を並べて配置する(VIIVIII)と、値の足しあわせを意味するとしています。次に、記号は値の大きな順に書く決まりなので、VVIIIIIとします。さらに、2つのVはXに、5個のIはVに置き換えます。結果はXVで、これは15の意味です。このプロセスでは、単なる省略以上の、新しい何かが起こっています。誰かが何かの数を数えたり、画線法を使ったりしなくても、7、8、15についての抽象的な真実が発見され、証明されたのです。数というものを、ほかの何かを使わず、それを表す数字を通して取り扱ったのだと言えます。
私は「算術計算を行ったのは、ローマ数字という記数法だ」ということを、文字通りの意味で言っています。もちろん、そうした数の変換を物理的に実行したのは、その記数法を使った人です。しかしそれを行うためには、その人はまず、脳のどこかにルールをコード化して、次にコンピューターがプログラムを実行するように、そのルールを実行する必要があります。そしてプログラムがコンピューターに何をすべきか指示するのであって、その逆ではありません。したがって、私たちが「ローマ数字を使って計算を行う」とするプログラムでも、ローマ数字という記数法が私たちを使って計算を行っているということになります。
人々に計算をさせることによってのみ、古代ローマの記数法は生き残ることになりました。言い換えれば、古代ローマ人の世代から世代へと、自らを複製させたのです。既に述べたように、知識というものは、適切な環境に物理的に具現化されている場合には、その状態を保つ傾向があります。
古代ローマ数字には、通説には反して、かなり効率的なかけ算や割り算の方法もありました。そのため、XX個の木箱を積んだ船があり、それぞれの木箱には瓶がV列 × VII列に並べてあれば、時間のかかる計算作業を行わなくても、この船には合計でÐCC個の瓶があると計算できました。また、ÐCCがÐCCIよりも小さいことは一目でわかります。したがって、数の操作を、画線法や計数作業と切り離して行うことにより、価格や給料、税金、金利などの計算に使うことも可能になりました。それと同時に、将来の進歩に道を開く、概念の上での前進だったとも言えます。しかし、そうしたより高度な作業をするには、
この位取り記数法はインドが起源とされていますが、いつ始まったのかは知られていません。それは遅くとも9世紀のことだと考えられます。この記数法が、科学や数学や工学、貿易の分野において非常に大きな可能性を持っていたことは、あまり広く理解されていませんでした。位取り記数法がアラブの学者に採用されたのはほぼこの時期でしたが、アラブ世界で一般的に使われるようになったのは、それから千年後のことです。普遍的なものへの熱意がこのように欠けているのは不思議ですが、そうした状況は中世ヨーロッパでも繰り返されました。ヨーロッパでも少数の学者が、10世紀にはインド生まれの数字をアラブ経由で採用していますが(その結果、「アラビア数字」という誤った名称がついた)、やはり、その数字が日常的に使われるようになったのは、数世紀後のことでした。
一方、古代バビロニア人は、紀元前1900年にはすでに、事実上普遍的な記数法にあたるものを発明していましたが、彼らもまた、その記数法の普遍性に関心がないばかりか、気づいてさえもいませんでした。それは位取り記数法でしたが、インドで考案された記数法と比べると、非常に扱いにくいものでした。それには「数字」が59個ありました。その数字はそれ自体が、ローマ数字のような記数法で書かれていました。古代バビロニアの記数法には、ゼロにあたる記号もなかったので、空白がプレースホルダーとして使われていました。連続するゼロを表す方法も、小数点に当たる記号もありませんでした(つまり、私たちの記数法で200、20、2、0.2にあたる数を書くと、すべて2になり、それらを区別するには文脈で判断するしかありませんでした)。これらから、この記数法は普遍性を主な目的としてつくられてはいなかったこと、そして普遍性が得られた場合でも、大きな評価を得られなかったことが示唆されます。
このような繰り返し起こる奇妙な性質を深く理解するには、紀元前3世紀にあった、古代ギリシャの科学者・数学者のアルキメデスが登場する有名なエピソードを考えると良いかもしれません。アルキメデスは、天文学や純粋数学を研究するうえで、非常に大きな数を計算する必要が出たため、独自の記数法を発明しなければなりませんでした。アルキメデスが出発点としたのは、慣れ親しんでいた古代ギリシャの記数法でした。これは古代ローマの記数法に似ていますが、最高値を表す記号はM(10000)でした。古代ギリシャの記数法の範囲は、Mの上に書いた数字は1万倍されるというルールを採用することによって、すでに拡張されていました。たとえば、20を表す記号はΚ、4を表す記号はδだったので、24万はと書けます。
たとえば、が24億を意味するように、何段もある数字をつくり出せるようなルールにしてさえいれば、古代ギリシャの記数法は普遍性をもつようになっていたでしょう。しかしギリシャ人はそうしたルールを採用しなかったようです。さらに驚くべきことに、アルキメデスも採用しませんでした。彼の記数法では違ったアイデアを用いています。それは現代の「科学的記数法」(200万をと書く方法)に似ていましたが、10のべき乗の代わりに、1億のべき乗を使っていました。しかしアルキメデスはさらに、指数は既存のギリシャ数字でなければならないと定めました。つまり、その指数は1億をなかなか超えないということです。したがって、私たちの記数法でのより大きくなると、この方法はうまくいかなくなりました。
現在でもより大きな数を必要とするのは数学者くらいなものですし、それもめったにないことです。しかしアルキメデスが制約を課したのは、このことが理由とは考えられません。数という概念を探る中で、アルキメデスはその記数法をさらに拡張しましたが、今度はの累乗を使うという、いっそう手に負えない記数法が生まれました。しかしこのときも、指数が800,000,000未満になるようにしたため、より上のどこかに、
なぜでしょうか? 現在考えると、アルキメデスが自らの記数法に、どの位置でどの記号を使ってよいかということに制約を付けたのは、非常に筋が悪いように思えます。
啓蒙運動によって普遍性自体が望ましいものとされるようになった
アルキメデスやアポロニウスはインドで考案されたような記数法を本当に思いつかなかったのでしょうか? あるいはそれを避けることを選んだのでしょうか? アルキメデスは、自分が使った記数法拡張の手法(二回連続で使った手法)ならば、無制限に拡張していけることに気づいていたはずです。しかしアルキメデスは、結果として生じる数字が、正当に論ずることのできるものについて言及するとは思えなかったのかもしれません。実際、そのとき彼が取り組んでいた仕事の目的の一つは、海辺にある砂粒を本当に数えることはできないというアイデアを否定することでした(当時はこのアイデアは自明の理とされていました)。そのため、アルキメデスは自分の記数法を使い、全天球を満たすのに必要な砂粒の数を計算しています。
さらにもっと純理論的な面の話だった可能性もあります。
コンピューター
普遍性への飛躍の一つで、啓蒙運動初期に重要な役割を果たしたのは、「活版印刷術」の発明でした。活版印刷で用いた可動式の活字は、金属製の部品からなっていて、その一つずつにアルファベットの一文字が浮き彫りしてあった。それ以前の印刷技術は、文書の各ページが一枚の印刷版に掘ってあり、その印刷板上のあらゆる記号を一回の作業で複写できるというものでした。それは字を書くことを単に効率化しただけであり、ローマ数字が画線法を効率化したのと変わりませんでした。しかし、それぞれの文字が何個かある可動式の活字が用意されていれば、それ以上金属板を掘る作業は必要ありません。活字を組んで単語や文章にするだけでよいのです。活字を製造するのに、その活字を使って最終的に印刷される文書の内容を理解している必要はありません。活字とは、普遍的なのです。
とはいえ、活版印刷が中国で11世紀に発明されたときには、さほど大きな変化はもたらしませんでした。よくあるように普遍性への関心がかけていたからかもしれません。あるいは中国の書記体系では数多くの象形文字を使っていたので、普遍的な印刷方式を生み出す直接的なメリットがなかったのかもしれません。しかし活版印刷は、15世紀のヨーロッパにおいて、印刷事業を行っていたヨハネス・グーテンベルグによって再発明されると、さらなる進歩を次々に引き起こすようになりました。
ここで見られるのは、普遍性への飛躍に特有の変化です。つまり飛躍の前には、それぞれの文書を印刷するたびに専用の物体をつくる必要がありますが、飛躍の後では、普遍的な物体(この場合には、可動式の活字を備えた印刷機)を必要に応じて調整する(あるいは特殊な目的に特化させたり、プログラムしたりする)ようになるということです。同じように、1801年にジョセフ・マリー・ジャカール(Joseph Marie Jacquard, 1752-1834)は、「ジャカード織機」として知られる万能絹織機を発明しています。ジャカード織機では、模様のある絹地を織る場合、生地一反ごとに一列ずつ手作業で操作する代わりに、パンチカードに任意の模様をプログラムし、その指示によって織機がその模様を何回も織ることができるようになっています。
こうしたテクノロジーとして最も重要なのが、「コンピューター」です。現在、あらゆるテクノロジーがコンピューターに頼る割合は増えています。またコンピューターには、理論や哲学の面での深い意味があります。
残念ながら、バベッジ自身と英国政府が大金を投じたにもかかわらず、バベッジはプロジェクトの運営が下手だったため、階差機関の発明にはついに成功しませんでした。
しかしバベッジの設計はしっかりしていたので(いくつか細かい間違いはありましたが)、1991年にエンジニアのドロン・スウェード(Doron Swade,1946-)が率いるチームが、この階差機関をバベッジの時代に実現不可能だった加工精度で組み立て、ロンドン科学博物館で実際に動かすことに成功しています。
現在のコンピューターはもちろん、電卓の基準から見ても、階差機関に可能な計算の種類は非常に限られていました。しかし、とにかくそれが存在しえる根拠は、物理学や航海術、工学で使われるあらゆる数学関数には、規則性があるからです。こうした関数は「解析関数」として知られており、1710年に数学者のブルック・テイラー(Brook Taylor,1685-1731)は、解析関数がすべて、加算と積算の繰り返しだけを使って、恣意的に近似可能であることを発見しています。解析機関が行うのはそうした演算です。したがってバベッジは、それ以前は表を作成する必要があった一握りの関数を計算するという偏狭な問題を解くために、解析関数の計算用の普遍的な計算機をつくり出したのだと言えます。バベッジの階差機関に搭載された、タイプライターに似た印刷装置では、活版印刷という普遍的なテクノロジーも活用していました。それがなければ、表を印刷するプロセスを完全に自動化することはできなかったのです。
バベッジたちも、そしてその後100年以上は他の誰も、コンピューターの最も一般的な用途が、現在のように、インターネットや文書作成、データベース検索、ゲームになるとは想像しませんでした。しかしバベッジはもう一つの重要な用途として、コンピューターが科学的予測に使われるようになると見越していました。
バベッジとラブレースは、啓蒙運動の時代の人々だったので、解析機関に備わっている普遍性は、その装置を画期的なテクノロジーにするだろうと理解していました。それでも彼らは、熱心に取り組みはしましたが、自分たちの熱意の対象を一握りの人々に伝えただけで、より多くの人々に伝えられませんでした。それを伝えられた人々も、さらに別の人々に伝えることができませんでした。その結果、解析機関は、実現していたはずの悲劇的な技術の一つとして歴史に残ることになりました。バベッジらがほかの方法を求めて辺りを見回しさえすれば、継電器(電流によって制御されるスイッチ)という完璧なものがすでにあることに気づいたかもしれません。継電器は当時は電信という技術革命のために量産されようとしていました。継電器を使って解析機関を再設計していれば、バベッジの解析機関よりも高速で、安上がりに開発できる簡単なものが実現していたでしょう。そうなれば、コンピューターの革命は、実際よりも1世紀早く起こっていたかもしれませんでした。同時期に開発が進められていた、通信と印刷という技術によって、インターネット革命が後に続いたかもしれません。
人工知能
数学者でコンピューターのパイオニアであるアラン・チューリング(Alan Turing,1912-1954)は後に、この誤りを「ラブレース伯爵夫人の反論」と呼んでいます。
何世紀にもわたって、一部の人々は、それぞれの時代でもっとも複雑な機械をもとにしたメタファーを用いて、機械的な観点から心を説明しようとしてきた。最初は、脳は非常に複雑な歯車やレバーの集まりのようだと思われていた。その次は油圧菅で、次は蒸気機関、その次は電話交換機だとされた。コンピューターが人間にとって素晴らしいテクノロジーとなった今、脳はコンピューターであると言われている。しかし、これはまだメタファーにすぎず、脳は蒸気機関ではなくてコンピューターだと考えるべき理由はない。
とサールは言います。
しかし、そう考える理由はあるのです。
皮肉なことに、「ラブレース伯爵夫人の反論」は、還元主義についてのダグラス・ホフスタッターの主張(第5章を参照)とほとんど同じ論理です(ただし、ホフスタッターは、AIの可能性の最も熱心な支持者の一人です)。それは、二人がともに、低レベルの計算ステップを積み重ねて、あらゆるものに影響を与える高レベルの「私」にすることは不可能だという、誤った前提に立っているからです。しかし、二人が違っているのは、その誤った前提が提示するジレンマにおいて、正反対の立場を選んでいることです。ラブレース伯爵夫人が選んだのは、そのような「私」は存在しえないという誤った結論です。
普遍的古典コンピューターの誕生
1936年に、チューリングは普遍的古典コンピューターに関する、権威ある理論を構築しました。チューリングが目指したのは、そうしたコンピューターの開発ではなく、数学的証明の性質を研究するために、その理論を抽象的に使うことだけでした。数年後に、最初の普遍的コンピューターが開発された時も、普遍性を実現しようという特別な意図はありませんでした。そのコンピューターは、第二次世界大戦中の特殊な軍事利用を目的として、英国と米国で開発されています。英国で開発された「コロッサス」コンピューター(チューリングも関与しています)は、暗号解読のために使われました。一方、米国のコンピューター「ENIAC」は、大砲の軌道計算に必要な方程式を解くために設計されています。この二つのコンピューターで使われているのは、真空管というテクノロジーでした。真空管は継電器のような機能を備えていましたが、速度は数百倍速いのです。同じころドイツでも、技術者のコントラート・ツーゼ(Konrad Zuse,1910-1995)が、継電器不要のプログラム可能な計算機を開発しています(それはバベッジが開発するはずだったものです)。この三つのマシンはどれも、普遍的コンピューターとなるのに必要な技術的特徴は備えていましたが、どれも普遍的コンピューターになるように構成されてはいませんでした。結局、コロッサスは暗号解読以外の用途で使われることなく、戦争が集結すると、ほとんど解体されてしまいました。ツーゼのマシンは連合国軍の爆撃によって破壊されました。しかしENIACは、普遍性への飛躍を許されています。戦後、ENIACは天気予報や水爆開発プロジェクトなど、本来の目的とは異なるさまざまな用途に使われたのです。
第二次世界大戦以降のエレクロトニクス技術の歴史は、より極小のスイッチを各装置に実装することによる、小型化が中心になってきました。こうした改良が、1970年ころの普遍性への飛躍につながります。このころ、いくつかの企業が別々に、マイクロプロセッサを開発しました。マイクロプロセッサは一個のシリコンチップの上に構築された普遍的古典コンピューターです。以降、あらゆる情報処理装置の設計は、マイクロプロセッサからスタートして、次にその装置に求められている特別な作業を行えるようにマイクロプロセッサを個別に修正する(つまりプログラムする)という手順で行えるようになりました。現在では、あなたの洗濯機に入っているコンピューターも、適当な入出力装置と、必要なデータを保持するのに十分なメモリ容量さえ与えられれば、洗濯ではなく、天文学計算や文書作成が行えるようにプログラム可能です。
そういった意味では(つまり、計算速度やメモリ容量、入出力装置の問題を無視すれば)、かつての人間の「計算者」から、たくさんの付属装置を備えた蒸気駆動型の解析機関、そして部屋くらいの大きさの第二次世界大戦中の真空管式コンピューター、そして現在のスーパーコンピューターまでのすべてが、計算というまったく同じ機能をもっているのは、注目に値する事実です。
普遍コンピューターへの飛躍の条件
一方、整数だけで行う計算はそうではありません。同じひもを使って、整数を、インチ単位の整数の値を取るひもの長さとして表すことができます。計算のステップが一つ終わるごとに、結果として得られたひもを切るか、長くするかして、一番近いインチ数にすれば良いのです。そうすれば誤差は蓄積されることはありません。たとえば、測定をすべて、10分の1インチの許容誤差で行えたとします。これなら各ステップが終わるごとに、あらゆる誤差が検出され、除去されます。そのため、連続して行う計算ステップの回数に上限が課せられることはないのです。
したがって、
デジタルは普遍性の条件だ
幸いなことに、処理される情報はデジタルでなければならないという制約によって、デジタル・コンピューターや、物理法則の普遍性が損なわれることはありません。ヤギの群れの長さをインチ単位の整数で測定するのが特定の用途には不十分なら、10分の1インチ単位や、10億分の1インチ単位の整数を使えば良いのです。このことは、ほかのすべての用途にも言えます。物理法則では、あらゆる物理的対象(あらゆる他のコンピューターを含む)の振る舞いは、万能デジタル・コンピューターを使えば、任意の精度でシミュレーションできることになります。それは、連続的に変化する数を、十分に細かい、離散的な数のグリッドで近似するということです。
遺伝暗号
こうしたさまざまな普遍性への飛躍のすべては、印象的なつながりがもう一つあります。それは、そうした普遍性への飛躍がすべて地球上で起こったことです。実際に、すでに知られている普遍性への飛躍はどれも、人間のもとで生じています。ただし、例外が一つあります。それは私がまだ言及していないもので、歴史的にみれば、ほかの普遍性への飛躍はすべてこの飛躍から生じています。それは、生命進化の初期に起こった普遍性への飛躍です。
現在の生物にある遺伝子は、複雑でかなり間接的な化学的経路によって、自らを複製しています。多くの種では、遺伝子は、それとよく似た分子RNAをいくつも生成するためのひな型として機能します。次にこのRNAは、身体を構成する化学物質、特に触媒になる酵素の合成を指示するプログラムとして機能します。触媒はある種のコンストラクターです。ほかの化学物質のあいだの変化を促進しますが、それ自体は変化しないからです。こうした触媒は、生物の化学物質の生成・調整機能のすべてを制御することで、生物自体を特徴づけています。きわめて重要なのは、ここにDNAの複製をつくるプロセスが含まれることです。これほど入り組んだメカニズムがどう進化したのかという問題はここでは重要ではありませんが、話をはっきりさせるために、一つの可能性を簡単に説明します。
今から約40億年前、地球の表面が十分に冷えて、液体の水が十分凝縮できるようになったばかりのころ、海は、火山や隕石落下の衝撃、暴風雨、そして現在よりも強い潮汐作用(月との距離が近かったから)によってかき混ぜられていました。同時に、化学的にも非常に活性の高い状態にあり、多くの種類の分子がつぎつぎと形成されたり、変換されたりしていました。この反応は自然に生じる場合もあれば、触媒によって引き起こされる場合もありました。そうした触媒の一つが突然、それ自体を形成しているものとまったく同じ種類の分子の形成に触媒作用を及ぼしました。その触媒は生きてはいませんでしたが、生命の最初の兆しだったと言えます。
それは、対象を限って作用する触媒にはまだ進化していなかったので、それ自体の変種も含む、ほかの化学物質の生成も加速させました。そのなかで、ほかの化学物質と比較して、自らの生成の促進(および自らの破壊の抑制)に最も優れていた化学物質の数が多くなっていきました。これらの化学物質は同時に、自らの変種の構築も促進し、進化が続いていきました。
しだいに、そうした触媒がもつそれ自身の生成を促進する能力は、十分しっかりとして明確なものになり、自己複製子と呼べるほどになりました。自身をより素早く確実に複製されるようにする自己複製子が、進化によって生まれたのです。
さまざまな自己複製子はグループとなり、それぞれが複雑に絡み合う化学反応の一部分を引き起こすのに特化することによって、協力し合うようになりました。そして、化学反応の正味の結果として、そのグループ全体の複製がより多く構築されるようになりました。このようなグループは、初期段階の生物だと言えます。その時点での生命は、普遍的でない印刷技術や、ローマ数字とだいたい同じような段階にありました。もはやそれぞれが個別に自己複製する段階ではありませんでしたが、調整やプログラミングによって特定の物質を生成する普遍的なシステムはまだ存在していませんでした。
最も成功した自己複製子は、RNA分子だったかもしれません。RNA分子には、その構成分子(「塩基」とも言い、DNAの塩基と同じ)の細かな配列によって決まる、独自の触媒活性があります。結果として、複製プロセスは単純な触媒反応ではなくなり、プログラミングに近くなっていきました。それは、塩基をアルファベットとして使う言語、つまり遺伝子を使ったプログラミングです。
遺伝子は遺伝暗号の説明書と解釈可能な自己複製子です。一方、ゲノムは遺伝子のグループで、互いに依存して複製を行います。ゲノムを複製するプロセスが、生物にあたると考えられます。したがって遺伝暗号は生物を指定する言語でもあります。ある時点でこのシステムは、DNAでできた自己複製子へと切り替わりました。DNAはRNAよりも安定的で、大量の情報を保存するのに適しています。
次に起こった出来事は広く知られているので、それがどれほど珍しく、不可解であるかはわかりにくいこともあります。
つまり、生物を指定する言語と考えられる遺伝暗号は、現象的なリーチを示してきたことになります。遺伝暗号は進化した結果、神経系もなく、動いたり、力を加えたりする能力もなく、内臓や感覚器官もなく、生活様式と言っても自らの構成要素を合成して、二つに分裂するだけの生物を規定しただけでした。しかし、現在ではその同じ言語が、そうした生物とは似たところのない無数の多細胞生物による、走る、飛ぶ、呼吸する、交尾する、捕食者や獲物を識別するといった振る舞いのためのハードウェアやソフトウェアを規定しています。また、羽根や歯といった工学的構造や、免疫系などのナノテクノロジー、さらにはクエーサーを説明したり、ほかの生物をゼロから設計したり、自らが存在する理由について思いをめぐらすような脳でさえも、その言語によって規定されています。
遺伝暗号は、その進化全体を通じて、はるかに狭いリーチを示していました。もしかすると、遺伝暗号の一種の変種のそれぞれが、互いに良く似た、ごくわずかの種だけを規定するために用いられたのかもしれません。いずれにしても、新しい知識を具現化した種が、遺伝暗号の新たな変種によって規定されるということは、良く起こることだったに違いありません。しかしその次に、非常に大きなリーチを獲得した時点で、進化は止まりました。なぜでしょうか? それは、何らかの普遍性への飛躍のように思えないでしょうか?
次に起こったことは、普遍性についてのほかの話で説明した、同じ悲しむべきパターンをたどっています。
1994年、コンピューター科学者で分子生物学者のレオナルド・エーデルマン(Leonard Max Adleman,1945-)は、DNAと、いくつかの簡単な酵素からできたコンピューターを設計して開発し、それがかなり複雑な計算をいくつか行えることを示しました。当時、エーデルマンのDNAコンピューターは世界最速のコンピューターとされていました。さらに、普遍的古典コンピューターを同じ方法で作れることも明らかでした。したがって、DNAシステムのほかの普遍性がどうだったにせよ、計算の普遍性もまた、エーデルマンが使うまで、何十億年間も使われることなく、DNAシステムのなかに内在していたのだとわかります。
コンストラクターとしてのDNAがもつ、この不可思議な普遍性は、実在したはじめての普遍性だった可能性があります。しかし、そうしたさまざまな形の普遍性のなかで、物理的に最も重要な
用語解説
普遍性への飛躍(The jump to university):急激で大幅な機能の向上を経験するために徐々にシステムを向上させ、ある領域で普遍的なものになる傾向。
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書評
普遍性は、本書で何度も出てくる重要なキーワードです。社会システムや道徳に普遍性を求めるのは、啓蒙運動を経て十分に現代社会に慣れ親しんだ私たちにとっては当たり前ですが、それより以前、まして古代ローマ時代などに遡れば、それは自然ではなかったという指摘には膝を打ちます。数や文字、大戦期に偏狭な目的で作られたコンピューターは、どれも普遍性を持っていたにも関わらず、「人間が制限した」ためにその大半は普遍性を達成できなかった、という関係の理解も面白いと思います。私たちの身の回りで、私たちが偏狭な思考のために普遍性を制約しているものがある可能性に気付かされました。
原子力宇宙船の建設がライフサイクルに含まれる生物を規定することができるか、という問いも面白いです。そこまで極端な例を考えることで、遺伝子は普遍的かという問いに答えようとしているわけです。また、そうした限界を突き詰めた生物の可能性を考えると、遺伝子操作によって人間に必要な生物を作り出す程度のことは何ら重要な倫理的問題は無いのでは無いかと思えてきます。そこで、第3章で、ドイチュは「人間に関して一意的に重要なものは、新しい説明を生み出す能力だけ」と断言していたことを思い返します。この普遍性への飛躍を遂げたものは、宇宙のどこに由来するものであれ、人間の条件を満たしているわけです。
参考
Interview with Doron Swade MBE https://archivesit.org.uk/interviews/doron-swade-mbe/
『無限の始まり』第5章「抽象概念とは何か」
抽象とは何か、と質問されて、うまく答えられる人は少ないと思います。そもそも抽象という概念自体が抽象的です。第5章「抽象概念とは何か」(原題:抽象化の真実)では物理学者が自然法則を発見してきたプロセスや、ホフスタッターの「ドミノ計算機」の思考実験の例を見ながら、この厄介で面白い、「抽象」の意味に迫ります。
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- 創発性とは何か
- 還元主義は間違いだ
- 科学の発見のメカニズムと創発性の関係
- 抽象概念は実際に物理的対象に影響を与えている
- 抽象概念とコンピューターと脳
- 道徳と真実の関係
- 哲学においても還元主義は空虚だ
- 抽象概念の諸側面
- 用語解説
創発性とは何か
日常の出来事は、基本物理学の観点から表すには途方もなく複雑なものです。たとえば、やかんに水を入れて火にかけたとします。そのやかんの中の水分子のすべての振る舞いを予測する方程式は、地球上のあらゆるスーパーコンピューターを宇宙の年齢と同じ期間だけ稼働させても、解くことができません。しかし幸い、こうした複雑さの一部分は、高レベルの単純さに形を変えます。たとえば、私たちは、水が沸騰するのにかかる時間をかなり正確に予測できます。その予測のためには、水の体積や熱源の出力といった、非常に簡単に測定できる物理量がいくつかわかればよいのです。さらに正確に予測するには、気泡の核形成が起こる場所の数や種類といった、より細かな性質を知る必要もあるかもしれません。しかし、そうした核形成などもやはり比較的「高レベルの」現象です。このように、水の流動性や、容器、熱源、沸騰や泡の関係を含めた、高レベルの現象のグループは、互いの関係の観点だけでうまく説明することができ、素粒子や原子レベルやそれより低いレベルのものを直接考える必要はありません。別の言い方をすれば、高レベルの現象全体の振る舞いは準自律的であり、ほとんど自己完結的だと言えます。
還元主義は間違いだ
科学が還元的に説明する場合も多いです。「原子間に働く引力はエネルギー保存の法則に従う」という事実を使うことによって、「熱の供給がなければやかんの水が沸騰しない」という高レベルの予測を行い、その予測を説明する場合などがそうです。しかし、還元主義では、レベルが異なる説明のあいだにいつでもそのような関係があることを求めていますが、多くの場合はそうなってはいません。前著『世界の究極理論は存在するか』では次のように書きました。
たとえば、ロンドンの議会広場に立っているサー・ウィンストン・チャーチルの像の鼻先にある特定の銅原子を考え、なぜその銅原子がそこにあるのか説明してみよう。それはチャーチルがその近くにある議会で首相を務めていたからである。そして彼のアイデアとリーダーシップが第二次世界大戦における連合軍の勝利に貢献したからであり、こうした人々を讃えるためにその像を建てる習わしがあるからだ。そして、その像の材料には銅を含む青銅が伝統的に使われるからだ。こうしてわれわれは、低レベルの物理的観察—ある特定の場所に銅原子が存在すること—を、アイデア、リーダーシップ、戦争、伝統のような、創発的な現象に関する極度に高レベルの理論を通して説明しようとする。
私がたった今示したもの以外に、その銅原子の存在を説明する低レベルの説明が、たとえ原理上にせよ、存在するはずだと考えなければならない理由はない。おそらく、還元主義的な「万物の理論」は、(たとえば)以前のある時点における太陽系の何らかの条件が与えられた場合、こうした銅像が存在する確率を原理上、低レベルで予測するだろう。しかし、こうした記述と予測(言うまでもなく不可能に近いことだが)は、何も予測しない。(…)こうした予測は、何よりもまず、たとえば第二次世界大戦とわれわれが呼んでいる複雑な運動に加わった、この惑星上のすべての原子にも言及しなければならないだろう。(…)あなたはその原子の配置とそれらの軌跡の何が、銅原子をこの場所に置く傾向をもたらしたのかを探求しなければならない。(…)
熱力学第二法則が導かれると考えなければならない理由はありません。還元主義にはしばしば道徳的な含みがあります。(つまり「科学は基本的に還元的であるべきだ」ということ)。このことは、私が第1章と第3章で批判した、道具主義と平凡の原理の両方に関係しています。
科学の発見のメカニズムと創発性の関係
いずれにしても、創発的現象は世界の説明可能性にとってきわめて重要です。人間は、昔から経験則を使って自然をコントロールすることができました。経験則による説明が対象としていたのは、火や岩といった創発的現象に存在する高レベルの規則性でした。さらにはるか以前には、経験則をコード化しているのは遺伝子だけでしたが、そのなかの知識もやはり創発的現象についてのものでした。したがって、
連続的に登場する科学的説明が、その予測を説明する方法では異なっていることがあります。予測自体が似ていたり、全く同一であるような領域でもそれはありえます。たとえば、アインシュタイン(Albert Einstein,1879-1955)による惑星の運動の説明は、ニュートン(Isaac Newton,1642-1727)による説明を単に修正するだけではありません。それはニュートンの説明の中心をなす重力や一様にすすむ時間といった要素を否定しています。同じように、ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler,1571-1630)の理論では、惑星は楕円軌道上を動くとされていますが、これは単に天球説を修正しただけでなく、天球の存在自体を否定しています。さらにニュートンの説明は、ケプラーが考えた楕円軌道の代わりに別の形状を用いているのではありません。ニュートンが物理法則に持ち込んだのは、瞬間速度や加速度といった微小区間で定義される量によって、物体の運動を規定する方法でした。つまり、こうした惑星運動の理論は、どれもそれ以前の理論が用いていた惑星の運動を説明するための基本的な手段を無視したり、否定したりしたのです。
このことは、道具主義を支持する説として、以下のように用いられてきました。
連続的に登場する理論のそれぞれは、前の理論による予測に小さいながらも正確な修正を行うことから、その意味では前の理論より良い理論だと言える。しかしそれぞれの理論の説明は以前の理論の説明を一掃してしまうことを考えると、以前の理論の説明はそもそも正しくなかったことになる。そうなると、連続して登場するそうした説明が、実在についての知識を成長させていると見なすことはできない。ケプラーの理論では、軌道を説明するのに力は必要なかった。ニュートンの理論では、逆二乗則で表す力であらゆる軌道を説明している。そしてアインシュタインの説明では再び、力は必要とされなくなっている。では、ニュートンの「重力」は(その効果を予測したニュートンの方程式は別として)、どうして人間の知識の前進となり得たのだろうか?
重力が人間の知識を前進させることが可能であり、実際にそうしたのは、理論が説明を行う際に介在する実体を一掃することと、その説明全体を一掃することは同じではないからです。
アインシュタインの理論は、ニュートンによる逆二乗法則や重力の法則などの性質のすべてを支持しただけでなく、そのようになる説明も行っています。ニュートンの理論もそれ以前の理論より正確な予測を行えましたが、それは、実際に起こっている出来事について、以前の理論よりも正しかったからに他なりません。
ところで、一連の惑星運動理論から得られる予測は、どれも似ていたというのは誤解です。ニュートンの予測は、橋渡しという意味では優れていますし、GPSを稼働させるうえでは多少不十分という程度ですが、パルサーやクエーサー、あるいは宇宙全体を説明するとなると、どうしようもないほど間違っています。そうした天体物理学現象すべてを正しく理解するには、アインシュタインによるまったく異なる説明が必要です。
理論に自らの生をかけることなしにそれを批判するというその能力には、もう一つ、より重要な長所があります。
抽象概念は実際に物理的対象に影響を与えている
第4章では、知識はそれぞれが自らの複製のために生物や脳を「使う」(したがって、それらに「影響を与える」)抽象的な自己複製子だと述べました。それは、今まで述べてきた創発的レベルの説明よりも高レベルの説明です。
コンピューター科学者のダグラス・ホフスタッター(Douglas Richard Hofstadter,1942-)は、著書『わたしは不思議の環』で、無数のドミノでできた専用コンピューターを想像しています。一定時間後にバネで起き上がるドミノを多数用意し、ループや分岐、合流のあるネットワークの形に配置します。うまく設計すれば、ドミノの列を伝わるシグナルで、任意の計算を組み立てられます。ホフスタッターの思考実験では任意の数が素数かそうでないかを計算するためのプログラムを想定しています。あるドミノが、入力値の約数が見つかった時だけ倒れるのです。
素数である641を入力し、ドミノの運動が始まります。このドミノ・ネットワークの目的を知らない観察者がドミノの動きを見て、ある特定のドミノはずっと立った状態のままで、どんなドミノにも決して影響されないことに偶然気がつきます。その観察者はそのドミノを指さして、「どうしてあのドミノは決して倒れないのか」と不思議そうに尋ねます。それに対する一つ目の種類の答えは、「そんなの、その前にあるドミノが決して倒れないからに決まっているじゃないか」というものです。 確かに、その答えは今のところ正しいのですが、ずっと正しいとは言えません。それは別のドミノに責任を転嫁しているだけです。数え切れないほど何度も責任を転嫁していけば、最終的には最初のドミノに到達します。
その時点での還元主義的な説明は、「そのドミノが倒れなかったのは、最初のドミノを倒すことで始まる動きのパターンのどれにも、そのドミノが含まれていないからだ」ということになります。しかし、それは既にわかっています。面倒なプロセスを踏まなくても同じ結論には到達できるのです。そしてこのことが正しいのは間違いありません。しかしそれは私たちが探していた説明ではありません。なぜなら、その説明が取り組んでいるのは「出力のドミノは倒れるだろうか」という予測の問題だからです。そしてそれは間違った創発性レベルで質問しています。私たちが答えを探しているのは、「なぜそのドミノは倒れないのか」という問題です。
適切な創発性レベルにある、異なった方法の説明は次のようなものです。「641が素数だから」
この説明は、先ほどの答えと同じように正しく、物理的なことについてはまったく述べていないという興味深い性質があります。焦点が集団的性質へと上昇しただけではありません。こうした性質は何らかの形で物理的なものを超越し、素数性などの純粋な抽象概念と関連するようになります。
なお、ホフスタッターは「素数性が、特定のドミノが倒れない理由に対するもしかすると唯一の説明かもしれない」と述べますが、この点は修正が必要です。物理にもとづく説明も同様に正しいです。ホフスタッターは残念ながら還元主義を受け入れてしまっています。ホフスタッターは、著書を通じて、心は身体に影響するのか、といういわゆる「心身問題」を扱っています。ホフスタッターは最終的に、哲学者のダニエル・デネット(Daniel Dennett,1942-)の説に従い、「私」は幻想であるという結論に至っています。この結論によれば、「物体を好きなように動かす」ことができないのは、「(その)振る舞いを決めるには物理法則のみで十分」だからです。ここから、ホフスタッターによる還元主義が出てきます。
しかし、物理法則も何かを動かすことはできません。説明し、予測するだけです。また、物理法則は私たちにとっての唯一の説明でもありません。「641が素数だから」という説明は、ことのほか良い説明であり、物理法則と矛盾しませんし、純粋な物理法則の観点よりも多くのことを説明します。
「原因」というアイデア自体、創発的で抽象的です。哲学者のデイヴィッド・ヒューム(David Hume,1711-1776)が指摘したように、私たちは因果関係を認識することはできません。認識できるのは、出来事の連続だけです。さらに、運動の法則は情報を失うことがなく「保守的」です。すなわち、
抽象概念とコンピューターと脳
創発的な物理量についての理論を用いて、やかんの水の振る舞いを説明する場合には、現実の物理システムの近似として、ある抽象概念(理想化されたやかんのモデル)を使っています。しかし、コンピューターを使って素数を調べる場合には、その逆の作業を行います。つまり、物理的なコンピューターを、素数を完璧にモデル化する抽象的なコンピューターの近似として使っているのです。現実のコンピューターと違い、抽象的なコンピューターは間違うことはありませんし、メンテナンスも必要ありません。そしてプログラムを実行するためのメモリと時間が無限にあります。
抽象概念についての知識がどこからもたらされるのかという問題は、謎めいた話ではありません。他のあらゆる知識と同じように、推量がスタートであり、批判と、良い説明の追求を経由してもたらされます。科学の範囲外にある知識は手に入れられないという考えが妥当なように思えるのは、ひとえに経験論のせいです。そうした知識が科学理論よりも「正当化されていない」ように思えるのは、「正当化された真なる信念」という誤解のせいにすぎません。
道徳と真実の関係
「"〜である"」という命題から"事実"に関する理論を導くことは科学の役割ではありません。科学の知識の成長は、良い説明を見出すことから構成されており、ある人の信念を正当化する方法からは構成されていません。また、事実に関する証拠と道徳的な格言は論理的に独立していますが、事実の説明と道徳の説明は独立ではありません。したがって、
たとえば、19世紀に、アメリカの奴隷がベストセラーの本を書いたとしても、その出来事によって「黒人は神の摂理によって奴隷となるよう意図されている」という命題が論理的に除外されることはないでしょう。経験によってその命題を除外できないのは、その命題が一つの哲学理論だからです。しかしその出来事は、多くの人がその命題を理解するうえで用いており、必要だった説明を破綻させる可能性があります。そして結果的にそういった人々は、以前に受け入れていた説明に疑問を抱いたかもしれません。
逆に、
こうしたつながりは驚くようなことではありません。
哲学においても還元主義は空虚だ
道徳哲学における基本的な考えは、次に何をすべきか、ということです。もっと一般的に言うならば、どのような人生を送るべきか、そしてどのような世界であってほしいか、ということです。もしあなたが突然、地球上で最後の人間になったら、どんな人生にしたいのかと悩むことでしょう。「何でもいいから、私の気に入ることをすべきだ」と決めたとしても、そこからヒントはほとんど得られません。なぜなら、あなたの気に入ることというのは、良い人生とは何かというあなたの道徳的判断に左右されるのであり、その逆ではないからです。
次に何をすべきかという問題は避けることはできません。さらに、善悪の区別は、こうした問題に対する最善の説明に現れるものなので、私たちはそうした善悪の区別を現実のものと見なす必要があります。別の言い方をすれば、善悪の間には、客観的な違いが存在します。
抽象概念の諸側面
物理的対象の「影響を受ける」とは、その物理的対象に関する何かが、物理法則を通じて、変化を引き起こしたという意味です。しかし因果関係と物理法則のどちらも、それ自体は物理的対象ではありません。それらは抽象概念であり、そうした抽象概念についての私たちの知識は、他のすべての抽象概念と同じく、私たちの最善の説明がそれらを引き合いに出しているという事実から生まれるのです。進歩は説明に依存します。したがって、世界を、説明できない規則性がある一連の出来事にすぎないとみなそうとすることは、進歩をあきらめることになります。
こういった、抽象概念が現実に存在するという主張からは、それがどのようなものとして存在するのか、たとえば、どの抽象概念がほかの抽象概念の単なる創発的側面であり、どの抽象概念がほかの抽象概念とは独立に存在するのかといったことはわかりません。物理法則が異なっている場合にも、道徳法則は変わらないのでしょうか。物理法則が異なる場合の道徳法則において、権威に対しむやみに服従することが、知識を一番うまく得られる方法だとしているなら、科学者は進歩するために、私たちが科学的探求の価値だと考えるものを回避しなければならなくなるでしょう。道徳はそれより自律的だというのが私の推測です。よって、
用語解説
創発性レベル(Levels of emergence):現象のうち、それを構成する実体(原子など)に分解せずに、現象どうしの視点からうまく説明できるもの
自然数(Natural number):1、2、3のような整数。
還元主義(Redictionism):科学はいつでも、構成要素に分解することで、物事を説明しなければならない、あるいはそうすべきである(したがって高レベルの説明は基本的ではない)という誤解。
全体論(Holism):重要な説明はすべて、全体の観点からみれば構成要素であり、その逆ではないとする誤解。
道徳哲学(Moral philosophy):どんな人生を送るべきかという問題に対処するもの。
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書評
自分がこの章を初めて読んだときには、たまげました。還元主義や功利主義による説明は無機的な冷たさがある、程度のイメージしか持っていなかったのですが、それが必ずしも説明として良いとは限らないという主張は非常に腑に落ちますし、霧が晴れたような気持ちになります。哲学というのは、ドイチュから入れば余計な勉強を省けると思います。
ホフスタッターの代表作『ゲーデル・エッシャー・バッハ』(白揚社)は、前著『世界の究極理論は存在するか』で「あらゆる人の必読書」として参考文献に挙がっています(ごめんなさい、読めていません)。デネットのクオリアの否定論へのドイチュの反論は第7章でさらに強化されます。
それにしても、繰り返しになりますが、あらゆる創発性レベルが最善の説明になり得るという説明は、非常に勇気づけられるものです。この発想は経済学などの社会科学分野でも有用でしょう。たとえばお金というものは創発的な現象だと考えるべきですが、その概念を所与とした議論も有効です。ランボルギーニとプリウスは実用性に分解して考えると、機能として大して変わらない(あるいはプリウスの方が便利である)のに、値段が大きく違います。イメージや文脈という別の創発性レベルでの説明があるのです。そうした文脈では、凹みなどの傷は意味を持ちます。逆に、「傷がついた、言い換えればエントロピーを高めたことが価値を下げた、つまりエントロピーこそが価値だ」という要素還元的な説明では、そもそもランボルギーニとプリウスの値段の違いを説明できないはずです。
近年の「デザイン」をめぐる議論の混乱も、本章での整理を踏まえればかなり交通整理されると思います。人間の社会システムにはさまざまな創発性レベルがあります。デザインとは、そういったさまざまな創発性レベルにおける問題解決です。人間の周辺に問題があることが多いため、デザインは人間を中心としたものだという考え方が生まれましたが、より正確には道徳は物理法則と無関係ではないというドイチュの主張から裏付けられる話だと思います。かつてデザインというのは物理的な製品にのみ適用される用語でした。現在では企業活動や人の生活のあらゆる創発性レベルで適用される用語になっています。つまり、社会はますます多数の創発性レベルで問題解決が図られるようになってきているということです。過去に問題が解決されたことで、現在は「より良い」問題に取り組めているとも言えます。
ドミノの例を読んで自分の脳裏をよぎったのは、マリオメーカー計算機(とマインクラフト計算機)でした。
ドミノでの計算機よりもさらに理解の難しい構造をしていますが…。
参照
システム思考については木村英紀氏の整理が良いと思います。
・木村英紀『世界を動かす技術思考 要素からシステムへ』,(ブルーバックス,2015)
デザインの定義については、内藤廣氏のものが素晴らしいと思います。
「デザインとは、エンジニアリングと人の心を、工学と人文を繋ぐもの、異なるテリトリーを翻訳して繋ぎ合わせるものです。」(p42)
「デザインとはその問題だけを解決することではありません。現れてくる問題を予測し、拡大していく領域の壁をどうやって乗り超えられるかだと思っています。領域の壁をまたぐための力、というふうにデザインを定義してもいいかも知れない。」(p33)
IDEO社のメンバーは、非常に大きな社会問題を解決する方法としてデザインを使うことを宣言しています。
・ティム・ブラウン著,千葉俊生訳,『デザイン思考が世界を変える〔アップデート版〕』(早川書房,2019)
「今日の私たちが直面する難問は、あらゆる方向に広がっているが、この10年間のIDEOの活動を通して見ると、その中でもとりわけ緊急性が高く、なおかつデザインが有望な道筋を描きはじめている分野がいくつか見えてくる。まとめると次のようになるだろう。
① 時代遅れになった社会システムのデザイン
② 参加型民主主義の復興
③ 脱自動車時代の都市のデザイン
④ 人間に優しい人工知能、スマート・マシン、ビッグ・データのデザイン
⑥ 線形経済から循環経済への転換」(p.297)
『無限の始まり』第4章「進化と創造」
第3章は、デイビッド・ドイチュの人類史観が凝縮された章だったと言えます。すなわち、人間がもつ、実在を説明する能力は宇宙的な意義があるという議論です。数十億年間、ただ退屈なサイクルを繰り返していた宇宙の環境は、知識が到達することでそれまでと全く別の物理的な変化を起こします。
知識には、人の思考が生み出す知識の他に、遺伝子としてコードされた生物進化によるものもあります。この二つの知識の類似性と相似性が本章前半のテーマです。
後半ではこの宇宙の物理定数が私たちの生存にぴったりである理由を説明する理論として採用されている「微調整」についても触れながら、創造説について俯瞰的に議論がなされます。
本章の原文でのタイトルは"Creation"です。
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人間の「知識」と生物の「知識」
人間の脳にある知識と、生物学的適応としてある知識はどちらも、広い意味での進化、つまり交互に起こる「選択と既存情報の変化」という進化によって生み出されています。人間の知識の場合、既存情報の変化は推量、選択は批判と実験によります。一方、生物の場合、既存情報の変化には遺伝子の突然変異(ランダムな変化)が関係しています。また自然選択では、その生物の繁殖能力を最も大幅に向上させる変種が有利となり、その結果、その変異体の遺伝子を集団に拡散させるメカニズムが働いています。
遺伝子が任意の機能に適応していると言った場合、遺伝子にわずかな変化を与えても、その機能を実行する能力が向上することはほとんどないという意味です。別の言い方をすれば、良い説明と同様に、良い適応は、機能を保ったまま変化するのが難しいという点で区別がつきます。
人間の脳とDNA分子にはそれぞれ多くの機能がありますが、注目すべきは、それらが汎用情報メディアであることです。原理上は、どんな種類の情報でも保管できます。さらに言えば、そのそれぞれがある種の情報を保管できるように進化していますが、それらの情報には共通して、宇宙的に意義のある一つの特徴があります。それは「いったん適切な環境のなかに物理的に具現化されれば、その状態を続けようとする傾向がある」ということです。そうした情報(私はそれを「知識」と呼びます)〔※ドイチュによる知識の定義はその後アップデートされています。第3章書評を参考〕が、進化や思考の誤り修正プロセスを踏まずに出現する可能性は非常に低いのです。
この二種類の知識のあいだには、重要な相違点もあります。一つは、生物学的知識は非説明的であり、ゆえに有限のリーチしかありませんが、説明的である人間の知識は、広大な、あるいは無限のリーチをもつ点です。もう一つは、突然変異がランダムに生じるのに対して、推量はある目的をもって、意図的に組み立てられる点です。
とはいえ、進化論と人間の知識は関連性は高く、生物学的進化についての歴史上重要な誤解にあたるものが、人間の知識についての誤解のなかにもあります。
創造説、自然発生説、目的論的証明、ラマルク主義
創造説の基本的な欠陥は、啓蒙運動以前の時代の、人間の知識に対する権威的な概念の基本的な欠陥でもあります。ある種の創造説は、ある種の知識が超自然的存在から初期の人間へ語られたという点でまったく同じ説になっています。それ以外の創造説では、偏狭な社会機能(政府における支配者階級の存在や、宇宙における神の存在そのものなど)は、タブーによって守られているか、まったく無批判に当たり前とされており、アイデアとして認識もされていません。
「設計らしきもの」について、具体的には何が説明される必要があるのかという問題にはじめて取り組んだのは、聖職者で、目的論的証明の熱心な支持者だったウィリアム・ペイリー(William Paley,1743-1805)でした。ペイリーは著書『自然神学(National Theology)』で、そこに時計が落ちていることは、石が落ちているとは違う意味があるということを示しました。その理由は、時計はある目的を果たすだけでなく、その目的に適応しています。時計の構造は、正確な時を刻むという目的に触れることなく説明することはできません。それは物質の配置としては珍しく、それができたのは偶然ではあり得ず、人々がその時計を設計したに違いないのです。もちろん、同じ議論はネズミなどの生物にもよりいっそう当てはまるということを示します。ネズミの眼球の水晶体には、光を集めて網膜上に像を結ぶという、望遠鏡のレンズと同じ目的があります。さらにこの網膜上の像には、食物や危険などを認識するという目的があります。
ペイリーは自然発生するとされていたネズミの全体的な目的が何であるかは知りませんでした。しかし、ペイリーの眼球の話だけでも、ペイリーの主張には十分です。ある目的のための設計らしきものの証拠となるのは、部品すべてがその目的を果たすことだけではなく、そうした部品をわずかに変えると、その目的にあまり、あるいはまったく適合しなくなることです。
時計やネズミでは、知識は具現化されています。現在では、私たちは「設計者なき設計」がありえることを知っています。(後述するネオ・ダーウィニズム。)ペイリーは問題の理解という点では全面的に正しかったのです。しかし、創造説では究極の設計者を誰が設計したのか、という問いに答えられません。すなわち、ペイリー自信が出した答えは、その論拠により自分自身で除外されてしまいます。彼はそれに気付きませんでした。
チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin,1809-1882)の進化論の発表以前から、人々は生物圏とその適応は徐々に現れたのではないかと考えはじめていました。ダーウィンの祖父で、啓蒙運動の熱心な支持者だったエラズマス・ダーウィン(Erasmus Darwin,1731-1802)などはそうした機能向上のプロセスを「evolution」と呼びました。これは現在の用法とは異なります。ダーウィンは、自らが発見したプロセスを「自然選択による進化('evolution by national selection')」と呼ぶことで区別していますが、それは「変化と選択による進化('evoluton by variation and selection')」という名称の方がよかったでしょう。
「自然選択による進化」は単なる「進化」よりもはるかに本質的です。機能の向上に関するあらゆる理論は、「その機能の向上を起こす方法についての知識はどのようにして生まれたのか」という問題を提起します。それは最初から存在していたと考えるのは創造説です。あるいは、たまたま生じたとするのは自然発生説です。
その疑問への答えを19世紀前半に提案したのはジャン=バティスト・ラマルク(Jean-Baptiste Lamarck,1744-1829)でした。彼が提案した答えは、現在「ラマルク主義(Lamarkism)」として知られています。
しかし、適応の進化を説明できるのは、単なる複雑性ではありません。それは知識でなければなりません。また、進化的適応は、一生の内に個体に起こる変化と、まったく異なる特徴を備えています。進化的適応は新たな知識の創造が伴います。個体の変化は、変化を起こす適応がすでにある場合にしか生じません。筋肉は使えば強くなるという傾向は、精緻で知識負荷的(knowledge-laden)な一連の遺伝子によって制御されています。ラマルク主義では、そうした遺伝子の中の知識が生み出された仕組みを説明できません。たとえば、トラが、毛皮にもう少し縞模様が多ければ食糧が少し増えることを、ラマルク主義的なメカニズムが「わかっていた」必要があります。また、色素を合成して毛皮に分泌し、ちょうど良いデザインの縞模様を生み出す方法を「わかっていた」必要もあります。
ネオダーウィニズム
ダーウィン的進化についての誤解で一般的なのは、進化は「種の利益」を最大化する、というものです。現実には、進化は種の利益も、個体の利益ですらも、最大化しません。
仮に、一つの島で、ある鳥が4月に巣作りをしているとします。特定の時期が巣作りに最適な理由は、気温、捕食者、食糧や巣の材料が手に入るかどうかといった要素を含む、さまざまなトレードオフで説明できます。あるとき一羽の鳥に、3月に巣作りをする突然変異が起きたとします。その個体は島で最も良い営巣場所を確保できるでしょう。生き残りに有利なこの遺伝子の割合は、世代を経るごとに種の中で増え、最終的にはこの遺伝子のアドバンテージは失われます。そしてこの状態は当初の状態に比べ、個体数が減少しています。したがって、個体数を最大化する(「種の利益になる」)ことに最大限に適応した遺伝子が存在するという、われわれが想像した初期の状態は、不安定です。
これに関連する誤解は、進化はいつでも適応的だという考え方です。つまり、進化はいつでも進歩をもたらす、あるいは少なくとも、有益な機能に何らかの向上をもたらして、その機能を最大化するように作用する、という誤解です。この誤解は「適者生存('the survival of the fittest')」と言われることがあり、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer,1820-1903)が生み出した言葉で、残念なことにダーウィン自身も採用しています。鳥の例で進化が種だけでなく個々の鳥も被害を受けたように、適者生存は事実として間違っています。
鳥の例で進化が達成したのはなんでしょうか。最大限に高められたのは、その環境への変異遺伝子の機能面での適応ではなく、生き残った変種が集団全体に広がる総体的な能力です。
生物とは、遺伝子が集団内に広まるという目的を達成するために用いる奴隷、あるいは道具です。ほとんどの遺伝子が自分の種とその個体に対して最適ではないにしろ、ある程度の機能面での恩恵を与えているのは偶然ではありません。
さらに、遺伝子の知識のリーチという現象を考えることができます。その個体が遺伝子の拡散のために厳密に必要とされる以上に多岐にわたる状況を切り抜けるのに役にたつことがあるのです。ラバには繁殖能力がないにも関わらず、生き続けられるのはそのためです。
ネオダーウィニズムは、その根本的なレベルでは生物学的なことについては何も言及していません。
ネオダーウィニズムの基本的な主張を、最も一般的な形で言うと、変異(たとえば不完全なコピーなど)をするようになった自己複製子の集団は、自らを複製することがライバルよりも得意な変種に乗っ取られてしまう、ということです。この深遠な真理は、私たちの、機能や目的の観点からの説明を好むような直観とは反します。
つまり、遺伝子に具現化されている知識とは、ライバルの遺伝子を犠牲にした自己複製の方法についての知識なのです。遺伝子はたいてい、自らが含まれる生物に有益な機能を与えることによって、こうした自己複製を行いますが、その機能についての知識は、遺伝子のなかの知識に付随的に含まれています。一方でそうした機能は、遺伝子のなかに、環境の規則性や、ときには自然法則の経験則的近似さえもコード化することによって実現されますが、この際、遺伝子は付随的に、その知識もコード化しています。
説明的でない人間の知識も、よく似た方法で進化することがあります。経験則は、次世代の利用者に完全な形で伝えられることはありません。また、長いあいだ生き延びる経験則はかならずしも、表向きの機能を最大化するものではありません。たとえば、美しい韻を使って表された規則のほうが、それよりも正確だが洗練されていない散文で表現された規則よりも、良く記憶され、繰り返し用いられる可能性があります。
説明的理論は、より複雑なメカニズムによって進化します。良い説明は変えるのが難しく、説明の伝達中に誤りが生じても、受信者がそれを検出し、修正することは容易です。説明的理論における変異の源として最も重要なのは、創造力です。人はほかの人から聞いたアイデアを理解しようとするとき、推量を行います。説明を正確に受け取った後は、それを改良しようとすることも多いでしょう。
つまり、人間の知識と生物学的適応はどちらも、抽象的な自己複製子です。それは、いったん適切な物理システムで具現化されれば、そのままであり続ける傾向をもつ情報の形態です。
ネオダーウィニズムの原則はある観点からみれば自明であるという事実は、それ自体がネオダーウィニズムの批判として用いられてきました。しかし、ネオダーウィニズムを反証するには、利用可能な最も良い説明に照らしてみれば、知識が違った方法で生まれたことを示唆するような証拠が必要です。たとえば、ある生物が、ラマルク主義や自然発生説で予測されるような、都合の良い突然変異だけを経験してきたことが観察されれば、ダーウィニズムの「ランダムな変異」という前提が反証されるでしょう。また、生物が、その親には先行する適応のない、新しい複雑な適応を持って生まれてくれば、段階的変化の予測が反証され、ダーウィニズムによる知識創造のメカニズムもまた反証されるでしょう。
微調整
物理学者のブライドン・カーター(Brandon Carter,1942-)が1974年に行った計算によれば、仮に荷電粒子の相互作用の力が1%小さかったら、惑星は形成されておらず、宇宙には、凝縮した物体は恒星しかなかったことになります。逆に、荷電粒子の相互作用の力が1%大きかったら、恒星は爆発しないので、恒星の外には、水素とヘリウム以外の元素は存在しなかったはずです。どちらの場合にも、複雑な化学反応は起こらないので、生命は存在しません。
カーター以降、ビックバンによる初期宇宙の膨張率など、ほかの物理定数についても、同様の結果が得られてきました。そのほどんどでは、わずかでも値が違えば、生命が存在する可能性はゼロになっていたでしょう。
この注目に値する事実はこれまで、そうした物理定数が超自然的な存在によって意図的に「微調整(finetuning)」されていた、つまり設計されていた証拠としても引き合いに出されてきました。これは新たな創造説であり、目的論的証明ですが、今度は物理法則のなかの「設計らしきもの」を基盤にしています。
第3章で石に刻んだように、問題を避けることはできません。未解決の問題はどんなときでも存在します。しかし問題は解決するものです。偉大な発見があった後でも、あるいはそういうときこそ、科学が進歩を続けるのは、偉大な発見自体が、新たな問題の存在を明らかにするからです。したがって、
「微調整」は説明を必要とするという考え方に対するシンプルな反論は、惑星の存在や、化学反応が生命の形成にとって不可欠であることを暗示する良い説明がないことです。
とはいえ、設計らしきものにあたるかどうかには関係なく、「微調整」は次のような理由により、正当かつ重要な科学的問題だと言えます。自然定数は生命を生み出すようにはまったく調整されていないというのが真実であり、その理由が、自然定数にある非常にわずかなずれでも、生命や知性はどうにかして進化できる(ただし環境の種類は大きく異なる)ためだとするならば、このことは自然界における未説明の規則性であり、したがって科学が対処すべき問題なのです。
物理法則は微調整されているように思えますが、本当に微調整されているとしたら、次の二つの可能性があります。その物理法則は現実のなかに(宇宙として)実在化された唯一の物理法則である場合と、別の実在の領域には異なる物理法則が存在する場合です。最初のケースでは、物理法則がなぜ現在の形を取っているのかということへの説明が存在すると考えなければなりません。その説明では、生命の存在に言及することもあれば、しないこともあります。もし言及すれば、私たちはペイリーの問題に立ち返ることになります。つまり、物理法則には生命を生み出すための「設計らしきもの」がありますが、物理法則は進化しなかったということです。あるいは、その説明が生命の存在に言及しないこともあるでしょうが、その場合には、物理法則が現在の形となる理由が生命と無関係であれば、生命を生み出すように物理法則が微調整されている理由は、説明されないままになるでしょう。
一方、いくつもの並行宇宙が存在していて、それぞれに独自の物理法則があり、その法則のほとんどが生命の存在を許していないとすれば、観測された微調整は偏狭な視点の問題でしかないことになります。定数が微調整されているように思えるのはなぜだろうかと考えたりするのは、天体物理学者が存在する宇宙のなかだけです。この種類の説明は「人間原理的推論(anthropic reasoning)」として知られています。しかし、原理は本当は必要ありません。それは単なるロジックです。
しかし、詳しく調べると、人間原理の主張が説明という仕事をやり終えることはないことがわかります。物理学者のデニス・シアマ(Dennis W. Sciama,1926-1999)による議論を考えます。
未来のある時点で、理論家たちが、物理定数の一つに関して、それがどのような範囲の数値を取れば、妥当な確率で(適切な種類の)天文物理学者が登場するようになるだろうかという計算をしたと考えます。その範囲を、たとえば137から138のあいだとします。理論家は、天体物理学者が登場する確率が最大になる値も計算しており、それがこの範囲の中間点、137.5であることがわかりました。
次に、実験家たちがその定数の値を、直接観測します。すると、おかしなことに、その値は135.7にはなりません。その理由は、ダーツで真ん中に刺さると予測するのは間違いであることと同じです。そのためシアマは、私たちがそうした物理定数の一つを測定して、その測定値が天体物理学者を生み出す最適値に非常に近いとわかっても、それは統計学的に反証されるものであって、確証されるものではないと結論付けました。もちろん、そうした値はそれでも偶然の一致なのかもしれませんが、その説明はヒースの荒れ野にあった時計はたまたまその形になっただけかもしれないと言うのと同じです。
シアマの議論は続きます。天体物理学者が登場する定数値がすべて一列に並んでいると想像した場合、人間原理的な説明によって、私たちは測定値が、その中間にも端にも近すぎない、ある典型的な値になると予想します。しかし、説明すべき定数がいくつかあれば、そうした予測は変わってきます。一つの定数がその範囲の端の近くになる可能性は低いものの、定数の数が多いほど、その定数のなかの少なくとも一つが範囲の端の近くになる可能性が高くなるからです。より多くの定数がかかわるほど、天体物理学者ありの典型的な宇宙は、彼らのいない状況に近くなります。関与する定数がどのくらいあるのかはわかっていませんが、数個だと思われるので、人間原理によって選ばれた領域における宇宙の圧倒的大多数は、その端に近いところにあることになります。
一見すると、このことが今度は、別の大きな未解決科学ミステリーを説明しているように見えます。このミステリーは、エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi,1901-1954)にちなみ「フェルミ問題」と名付けられた、地球外文明はどこにあるのか、というものです。天体物理学者という現象が私たちの惑星に特有のものと考える必要はなく、同じような条件は、おそらくほかのさまざまな恒星系にも存在しています。それならば、そのなかのいくつかが、同様の結果を生み出さない理由があるでしょうか。 私たちはなぜ、他の文明や探査機、信号を目にしていないのでしょうか。
シアマの主張に照らしてみれば、この問題を解決するように思えるかもしれません。私たちの宇宙の物理定数はかろうじて天体物理学者を生み出せる数値であれば、この天体物理学者を生み出すという出来事が一度しか起こらなかったとしても驚きではありません。
残念ながら、この「微調整」による説明も、悪い説明であることがわかります。基本的な定数に焦点を当てることは偏狭だからです。1.異なる定数をもつ「同じ」物理法則と、2.異なる物理法則 のあいだには、妥当な違いはありません。また、
同じことが、かなりの数の定数が関与する、ほかのあらゆる微調整についての、純粋に人間原理的な説明にも当てはまります。そうした説明から予測されるのは、私たちがいるのは、天体物理学者はかろうじて存在したかと思うと、一瞬のうちに存在しなくなるような宇宙である可能性が圧倒的に高いということです。それらは悪い説明です。論理的に可能な物理法則はすべて、宇宙として実在化されるという説は、説明としていっそう深刻な問題を抱えています。そうした無限集合を考える場合、そのなかのいくつに特定の性質があるのか「数える」ための客観的な方法がない場合が多いのです。また、天体物理学者を含んでいる、
こうした理由から、
なんでも同じようにうまく説明できてしまう説明は、悪い説明である
本章で議論した悪い説明はすべてつながり合っています。人間原理的推論に期待しすぎたり、ラマルク主義の仕組みをじっくり考えすぎると、自然発生に行き着きます。自然発生を真剣に考えすぎれば、創造説に行き着きます。そうなるのは、こうした説明がすべて同じ根本的な問題に対処しており、どれも変更するのが簡単であるからです。それらは互いに、あるいはそれ自体の変種と、簡単に交換できてしまい、
生物圏についてのこうした悪い説明、とりわけ創造説は、創造というものを過小評価しています。優れた科学者が重要な発見を完成させた瞬間に超自然的な創造者が宇宙を作ったとしたら、その発見を実際に行ったのはその科学者ではなく、超自然的な存在だったということになります。そうした理論は、科学者の理論の発生の時点で実際に起こった、唯一の創造の存在を否定します。
そして、それは本当に創造です。ある発見が行われる前に、予測的なプロセスによって、その発見の内容や結果を明らかにすることはできません。もしそれができるなら、それこそが発見にあたるからです。つまり、
用語
進化(ダーウィンによるもの)(Evolution(Darwinian)):交互に起こる変化と選択による、知識の創造
自己複製子(Replicator):それ自身の複製に因果的に寄与している実体
ネオダーウィニズム(Neo-Darwinism):「適者生存」のようなさまざまな誤解のない、自己複製子の理論としてのダーウィニズム。
ミーム複合体(Memeplex):互いの複製を手助けする生物の形成。
自然発生(Spontaneous generation):先に存在する非生物からの生物の形成。
ラマルク主義(Lamarckism):生物学的適応は、生物が自らの一生のあいだに獲得し、その後、その子孫に受け継がれる進歩であるという考えにもとづいた、誤った進化理論。
微調整(Fine-tuning):物理定数がわずかに違っていたら、生命は存在しないだろうという考え。
人間原理的説明(Anthropic explanation):「問題の現象が起きる理由を誰かが疑問に思うのは、知性のある観測者がいる宇宙のなかだけである」とする説明。
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書評など
人間原理は、人類の宇宙でのポジションを理解する方法として一般によく知られていると同時に、哲学的な雰囲気のある話題です。ドイチュは淡々とこれを批判しており、なかなか面白いと思いながら読みました。シアマはドイチュの博士論文の指導教員です。ドイチュの周囲の先鋭による人間原理の議論をさらに突き詰めようという気概を感じる章でもあります。
この章ではドーキンスについても詳しく解説されました。ドイチュはドーキンスの宇宙観については前章では否定的でしたが、ネオダーウィニズムやミーム論については、ほぼ彼の議論に沿い、前進を試みています。前著『世界の究極理論は存在するか』の冒頭には以下の一文が添えられています。
「カール・ポパー、ヒュー・エヴェレット、アラン・チューリング、リチャード・ドーキンスへささげる。本書は彼らのアイデアを真剣に受け取っている。」
実は、大のドーキンス推しなんですね。時計のメタファーは、パスツールが神の存在証明に用いたのを、ドーキンスが『盲目の時計職人』で逆手に取ったものです。同書で解説されている「イタチ・プログラム」は、遺伝子の変異と選択のメカニズムというネオダーウィニズムのアイデアの肝を、プログラムを用いて明快に説明したものです。面白いのでPythonで書き起こしてみました。
Google Colabにも貼りました。環境がなくてもブラウザで動作を確認できます。
人間原理という哲学問題へのスタンスも明確です。ドイチュによれば、人間原理はただのロジックであり、説明の一部になり得ることは否定していません(自分もこれは当然だと思います)。しかし、人間原理に人類がいる理由の説明を期待しすぎると、全く筋が悪くなると主張しています。ドイチュ以外でも、無数の物理定数がかかわる超弦理論への批判の一部はそうした形を取っているように見えます。
ピーター・ウォイト著,松浦俊輔訳,『ストリング理論は科学か―現代物理学と数学』(青土社,2007)
参考
パスツールの住んでいた家は現在は公開されており、自然発生説を反証する実験に使われた「パスツール瓶」もオリジナルが残っているようです。
画像:https://coloradorotarygoestofrance.wordpress.com/2011/04/09/la-maison-de-louis-pasteur/
『無限の始まり』第3章「われわれは口火だ」
第1章と2章では、知識の創造の源は良い説明の追求であること、そして説明的知識は修正を加えながら実在に近づくことができるということが示されました。では、こうした知識の創造は無限に続くのでしょうか。あるいは本質的に有限なのでしょうか。第3章では、この疑問に答えながら人類の宇宙的な意味について論じられます。
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- 啓蒙運動以前は人間中心的だった
- 反人間中心主義:平凡の原理と宇宙船地球号
- 単純な事実として二つのアイデアは間違っている
- 道徳的側面からみても二つのアイデアはそれぞれ逆説的だ
- 二つのアイデアは収斂する
- 人々の宇宙的重要性
- 人間のリーチ
- 知識創造の3条件
- 問題は解決できる
- 人間の究極的なリーチ
- 宇宙的な枠組みにおける知識の重要性、人々の重要性
- スパーク
- 用語解説
啓蒙運動以前は人間中心的だった
古代の日常的な経験の範囲外にある実在をめぐる記述は、単に間違っているだけでなく、現代の記述とは根本的に異なる特徴が見られます。それは人間中心的であることです。冬の訪れや自然災害などは、宇宙的重要性をもつ存在が人間に対して何らかの意図を抱くことによると説明されました。その後の地球中心説では、人間は宇宙の物理的な中心へと格上げされました。説明の上での人間中心主義と物理的配置の上での人間中心主義は、その妥当性を互いに高め合いました。 啓蒙運動以前は、現代の私たちには想像もできないほど人間中心的だったのです。例外だったのは古代ギリシャの数学者ユークリッドが構築した幾何学体系であり、その考え方は当時の一般的な世界観には影響を与えなかったものの、後の啓蒙運動ではその先駆者らに多くの刺激を与えることになります。
啓蒙運動以降、幾何学だけではなく、私たちは科学のあらゆる基礎領域において、自然の説明を人々の考えや意図といった観点から遠ざけてきました。今では夜空の恒星や惑星のパターンが人間の世界の出来事に影響を与えることはないとわかっています。物理学の知識は、もっぱら素粒子や力、時空といった非人格的な実体の観点から表現されます。そしてその相互作用は自然法則を表す数式で説明されます。
自分の馴染みのある環境や視界のなかの思いがけない出来事(夜空の動きなど)を、観察対象の客観的特徴だと勘違いしたり、経験則を普遍的法則と取り違えるのは、ありがちなことです。私はそうした誤りを
反人間中心主義:平凡の原理と宇宙船地球号
人間中心的な理論の放棄は非常に実り多いものであり、反人間中心主義は徐々に、「人間は(宇宙の仕組みのなかでは)重要でない」という普遍的原理へと高められていきました。
つまり、スティーブン・ホーキングの説くように、人間は「典型的な銀河の外縁部にある、平均的な恒星を回る中規模の惑星の上に生じた化学物質の浮きカスに過ぎない」ということです。
ここでは「宇宙の仕組みのなかでは」というただし書きが必要です。それは、その化学的な「浮きカス」が自らに適用している道徳観などの価値観に照らせば、その浮きカスにも特別な意味があるのは間違いないからです。「平凡の原理」では、こうした価値観自体がすべて人間中心的だとしています。その価値観が説明するのは、「浮きカス」の振る舞いのみであり、それ自体は重要ではないからです。
人間の条件についての影響力の大きなアイデアとしては、ときとして
宇宙船地球号のメタファーと、「平凡の原理」は、どちらも科学を重視する人々のあいだで広く受け入れられており、自明の理とさえ言われるようになりました。しかし実際には、この二つはやや異なる方向の主張を行っています。平凡の原理は、地球とそこに住む化学的な浮きカスが(何の変哲もないという意味で)いかに普通であるかということを強調しています。一方、「宇宙船地球号」は、地球と浮きカスが(類を見ないほど適合し合っているという意味で)いかに普通でないかということを強調しています。
しかし、この二つのアイデアは哲学的な方法で解釈すれば簡単に収斂します。すなわち、どちらもほぼ同じ偏狭な思考である「われわれが地球での生活で得た経験は宇宙を代表する」、そして「地球は非常に大きくて、変化せず、永久に存在する」という誤解を正すものだと考えられていることです。
平凡の原理と宇宙船地球号のアイデアは、地球が小さく、はかないことを強調します。そしてどちらも人間の傲慢さに対抗しています。平凡の原理は啓蒙運動以前の人間中心主義の傲慢さに対抗しています。一方で、宇宙船地球号のメタファーは世界をコントロールしたいと願う啓蒙運動の傲慢さに対抗しています。どちらの考え方にも、私たちは自らを重要だと考えるべきではないという、道徳的要素があります。そしてどちらも、世界が私たちの略奪行為をいつまでも甘受すると思うべきではないと断言しています。
単純な事実として二つのアイデアは間違っている
二つのアイデアを注意深く検討すれば、それぞれ事実として間違っているということがわかります。宇宙にある物質は、その80%が光を放つことも吸収することもできない、目に見えない「暗黒物質」とされています。残りの20%が私たちが偏狭な意味で「通常物質」と呼ぶ類いの物質です。そして、人間や地球、恒星ほど高密度の物質は、必ずしも典型的ではありません。宇宙は大部分が真空状態です。さらに言えば、最も一般的な通常物質の状態はプラズマです。プラズマが存在するのは超高温の恒星内部です。概念上の話として、宇宙空間全体を太陽系の大きさの立方体に分割すると想像します。その一つである、典型的な立方体から観察した場合、その空は真っ黒です。最も近い恒星が超新星爆発した時でさえわずかな光も届きません。典型的な立方体の温度は宇宙背景放射と同じ約2.7ケルビンです。そして、その空間に存在する原子の密度は、1立方メートルあたり1個以下であり、銀河系の恒星間空間にある原子の密度の100万分の1にすぎません。低温で、暗く、何もない、想像を絶するほど荒涼とした環境が、宇宙では典型的なのです。
宇宙では私たちはものの数秒で死んでしまいますが、原始的な状態のオックスフォードシャー(イングランド南東部地域)でも、冬であれば数時間のうちに死んでしまう可能性があります。現在のオックスフォードシャーには確かに生命維持装置がありますが、これは生物圏がもたらしたものではありません。衣服、住居、農場、病院、電力網、下水道などから構成されたシステムは、すべて人間が作り上げたものです。想像上の宇宙船に備えられた生命維持システムとは違い、人類進化の地である大地溝帯は捕食者や寄生虫や病原菌が蔓延る過酷な環境でした。地球の生物圏が生物を維持することに「適応しているように見える」理由は、生物圏は個体を放置し、傷付け、障害を与え、殺すこと以外に安定な状況に到達する仕組みを備えていないためです。正味として、地球上にかつて存在した生物の99.9%は現在では絶滅しています。遺伝学的証拠から、私たち人類も一度絶滅をぎりぎりのところで回避したことがわかっています。生物圏は生物種の偉大なる保護者ではありません。また、私たち人類は北極地方やアマゾンのジャングルで生き残る方法を、道具、武器、火、衣服などの知識を、遺伝ではなく文化のなかで伝えることで生き残ってきました。地球は私たちに生き残るための原材料は与えてくれましたが、その原材料を別のものに変換する知識や、まして繁栄のための知識を与えてくれたことは一度もありません。
道徳的側面からみても二つのアイデアはそれぞれ逆説的だ
平凡の原理は道徳的に逆説的です。あらゆる種類の偏狭な誤解のなかから、人間中心主義だけを特別な非難の対象として選び出しているので、平凡の原理自体が人間中心的だと言えます。そして、人間中心的な論理からは、「化学的な浮きカス」の外の世界の様子については、道徳的に何も言えることがありません。いずれにせよ、人間中心主義の導入は、傲慢さによるものではなく、良い説明を探し求める方法がない中で導入された合理的な説明の方法でした。
宇宙船地球号のアイデアもまた逆説的です。このメタファーは、かつて人間が何の困難もなく暮らす時代があったことを意味します。生き延びて反映するために、絶え間なく持ち上がる問題を自ら解決する必要がなく、宇宙船の乗客のように、必要なものはすべてあてがわれていた時代ということです。実際は、老人の化石はほとんど見つかっていません。地球は私たちに何も贈り物をしていません。宇宙船地球号のメタファーでは、他のあらゆる生物種は道徳的にプラスの役割が割り当てられているのに対し、人間は唯一、マイナスの役割だとされます。しかし人間は生物圏の一部であり、道徳に反するとされる行動にしても、ほかのあらゆる種が反映の時代に取る行動とまったく同じです。違うのは、人間だけは、そうした反応が自らの子孫やほかの種に与える影響を和らげようとすることです。
二つのアイデアは収斂する
平凡の原理に関して、進化生物学者リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins,1941-)による主張について考えます。生物の特性は、環境の中での自然選択によって進化してきました。私たちの感覚が果物の色や匂い、捕食者が立てる音などに気づくように適応しているのはそのためです。そして、私たちは生き残るのに無関係な現象に気づく能力に進化が資源を浪費することはありません。そこでドーキンスは、人間の機能は、人間のサイズ、時間、エネルギーなどに近い規模をもつ、狭いグループの現象に対処するように進化したと言います。つまり、私たちの感覚が、ニュートリノやクエーサーを知覚できないのと同じく、私たちがそうした現象を理解できる理由はないはずです。私たちは幸運にもそうした現象を理解できましたが、この先も幸運が続くとは限りません。このドーキンスの結論は、平凡の原理を適用したことによる衝撃的な結論と言えます。科学の進歩は人間の脳の仕組みによって決まる限界を超えられないということです。
ここで、
世界は説明不可能だという前提はどれも、非常に悪い説明にしかなりません。説明不可能な世界は手品でごまかされている世界と見分けがつきません。さらに言えば、泡の外にある世界は泡の中の世界についての説明に影響を与えるため(そうでなければ泡はなくてもいいことになります)、泡の中の特定の疑問を質問しないように注意して初めて、泡の中の世界が説明可能になります。この考え方は地上と天界を区別していた啓蒙運動以前の知的風景と似ています。
平凡の原理と宇宙船地球号のアイデアはいずれも間違っています。私たちは朝食前に暗唱する価値のある格言として、これらの否定表現を石に刻むべきです。
人々の宇宙的重要性
啓蒙運動以降、テクノロジーの進歩は経験則ではなく説明的知識の創造に頼るようになってきています。人々は何千年ものあいだ、月に行くことを夢見ていましたが、そこに行くために必要なのは力や運動量などの目に見えない実体の振る舞いに関する理論でした。世界を説明することと、世界を制御することの関係は、偶然ではなく、世界の深遠な構造の一部です。
すべての規則性には本質的に説明があり、その規則性の説明は、自然法則か、自然法則にとって生じた結果です。そのため、自然法則で禁止されていないものはすべて、適切な知識があれば達成可能なのです。
人間がある環境で、例えば月面で、生きていけるかどうかは人間の生化学的性質には左右されません。月面であっても、空気、水、気温など偏狭なニーズについて、適切な知識があれば、他の資源を変換することによってすべて満たすことができます。私たちは地球を居心地の良い場所であり、月を遠くにある荒涼とした死の世界と考えることに慣れてしまっています。しかし、私たちの祖先は私の住んでいるオックスフォードシャーを同じように見ていたでしょう。人間というユニークなケースにとって、ある環境が居心地が良いか悪いかは、人間がどういった知識を生み出してきたかによって決まります。
知識を利用して自動化された物理学的変換現象を引き起こすこと自体は、人間だけでなくあらゆる生物の基本的な生存のための方法です。
人間のリーチ
宇宙の一部の環境では、人間が繁栄するための一番効率的な方法は、自らの遺伝子を改変することかもしれません。一部の人間中心的な間違いをした人々は、遺伝子操作された人間はもはや人間ではないと反対しますが、
天体物理学者のマーティン・リース(Martin Rees,1942-)は、宇宙のどこかに「われわれには想像できないような形態の生命や知性が存在するはずだ。チンパンジーには量子論を理解できないのと同じで、それは、われわれの脳の能力を超えた実在の側面として存在する」と推測しています。しかしそのようなことはありません。そこで問題とされている「能力」が計算速度や記憶容量のことであれば、私たちはコンピューターの助けを借りて問題とされている側面を理解することができます。しかし、ほかの形をとる知性に理解できることを私たちが定性的に不可能かもしれないという主張だとしたら、これは単に、世界が説明不可能であるということを再び主張しているだけです。
知識創造の3条件
この問題は、次のような質問に帰着します。そうした環境が存在しうるなら、そこで最低限必要とされるのは、どのような物理的特徴でしょうか?
物質が手に入ることが一つです。テクノロジーがどれだけ進んでいても、目的の物質を得るのに何らかの材料は必要です。制限のない一連の説明的知識を生み出すには、継続的な質量の供給が必要です。
また必要な変換の多く—推量や科学実験や製造プロセスなど—にはエネルギーが求められます。質量とエネルギーはある程度は互いに変換可能です。
物質とエネルギーに加えて、基本的に必要なものがもう一つあります。科学理論をテストするのに必要な情報、すなわち証拠です。地球の表面には豊富に証拠があります。空からの光という証拠は、何十億年も前から地球の表面にあふれていましたし、今後、何十億年経っても変わらないでしょう。私たちはそうした証拠をやっと調べ始めたところです。同じことは月にも当てはまります。月には質量、エネルギー、証拠といった、地球と基本的に同じ資源があります。
人間はユニバーサル・コンストラクターなので、資源の発見や変換といった問題はいずれも、与えられた環境での知識創造を制限する、一時的な要因にすぎません。したがって、
問題は解決できる
そうなると、私が石に刻むべきだと提案した、「地球の生物圏には、人間の生命を維持する能力はない」という格言は、実際には、人々にとって、「問題は避けられないものだ」という、はるかに一般的な真理のなかの、特殊なケースだと言えます。
私たちが問題に直面することは避けられません。しかし、特定の問題を避けられないのではありません。私たちは問題を解決することで生き延び、成長します。自然を変えるという人間の能力は物理法則にしか制限されません。つまり、人々と現実世界に関する、補完的で、同様に重要な真理が、「問題は解決できる」ということです。ここで解決できるというのは、適切な知識が問題を解決するという意味です。もちろん、望んだだけで知識が手に入るわけではありません。しかし原理的には知識は手に届くところにあります。二つの言葉を石に刻みましょう。
進歩は可能であり、かつ望ましいというのは、啓蒙運動の中心をなすアイデアです。進歩は、あらゆる批判の伝統と同時に、良い説明を追求するという原則の動機となります。しかし進歩にはほぼ正反対の二通りの解釈があります。紛らわしいことにどちらも「完全性(perfectibility)」と呼ばれています。一つは、仏教やヒンドゥー教の「涅槃」やさまざまな政治的ユートピアのような、完全とされる状態に達することができるという考え方です。もう一つは、あらゆる到達可能な状態は、無限に高められるという考え方です。可謬主義の立場によれば後者が支持されます。人間の進歩と完全性をめぐる、これら二つの解釈は、歴史的に啓蒙運動の二つの大きな潮流、イギリス啓蒙運動と「ヨーロッパの啓蒙運動」に刺激を与えてきました。二つの流派は、権威の否定という特性では共通していますが、重要な点で異なります。
ヨーロッパの啓蒙運動は、問題が解決可能であることは理解していましたが、問題が不可避であることは理解していませんでした。ヨーロッパの啓蒙運動は、それゆえ、知識の面でのドグマティズムや、政治的暴力、新しい形の専制政治へとつながりました。1789年のフランス革命とそれに続く恐怖政治はその典型的な例です。
一方、イギリス啓蒙運動は漸進的であり、人間の可謬性を認識していたため、ゆるやかで継続的な変化を妨げないような制度を求めていました。同時に、将来的に制限を受けない、小さな改善を行うことにも熱心でした。この取り組みが、進歩の追求において功を奏したのだと考えています。本書で「啓蒙運動」という場合には、イギリス啓蒙運動を意味します。
人間の究極的なリーチ
人間の(あるいは人々や、進歩の)究極的なリーチを調べるには、地球や月といった、資源が非常に豊かな場所を考えるべきではありません。そこで、前に議論した典型的な場所、銀河間空間へ戻ります。ここでは物質、エネルギー、証拠の3要素の供給は最小限です。鉱物の豊かな供給も、頭上からエネルギーをただで届けてくれる巨大な核融合炉もありません。自然法則の証拠を提供してくれる、空の光や、さまざまな局地的な現象もありません。そこは何もなくて、冷たく、暗い場所です。
本当に何もないのでしょうか?実際のところ、それもまた別の偏狭な誤解です。銀河間空間を太陽系サイズの立方体に分ければ、それぞれの立方体は10億トン以上の物質を含んでいます。そのほとんどは電離水素です。10億トンというのは、例えば制限のない一連の知識を創造する科学者のための宇宙ステーションや入植地を建設するには、十分すぎるほどの量です。仮にその方法を知っている人がいればの話ですが。
現在、その方法を知っている人間はいません。水素からほかの元素への変換を産業規模で行う方法は、現在は知られていません。しかし物理学者は、そうした元素変換を禁止する物理法則はないと確信しています。
温度の低さと、利用できるエネルギーがないという問題はどうでしょうか?水素の元素変換によって、核融合エネルギーを取り出せます。これはエネルギー供給としては相当多く、地球上のすべての人が毎日消費する総電力量を超える規模です。つまり、この立方体の中には、偏狭な第一印象が示すほど、資源が不足しているわけではないのです。
宇宙ステーションに不可欠な証拠の供給は、どのように行われるでしょうか。科学実験室は、元素変換によって作られる元素で建設可能です。また、化学の発見も元素変換で重要ではなくなります。生物学の現地調査は難しいものの、人工の生態系の中で、任意の生命体を作り出し、研究することができます。仮想現実空間でのシミュレーションも可能です。10億トンの物質を除いても、その立方体には微かな光が満ちています。光の中には圧倒的な量の証拠が存在し、最も近くにある何個かの銀河の中のあらゆる恒星や惑星、衛星の分布図を、10キロメートルの精度で描くのに十分なほどです。そうした証拠すべてを取り出すために使う望遠鏡には、その立方体自体と同じ幅をもつ、反射鏡のようなものが必要になるでしょう。その鏡には、少なくとも惑星を一つ作るのと同じくらいの物質が要求されます。しかしそれでさえ、私たちが考えるテクノロジーのレベルを前提とすれば、可能性の範囲を超えるものではありません。ほんの数百万トンレベルの望遠鏡でも、かなりの天体観測ができます。いかなるときでも、典型的な一個の立方体には、1兆個以上の恒星とその惑星についての詳細な証拠が同時に存在するのです。
宇宙の中の典型的な場所というのは、制限のない知識の創造に適した場所です。したがって、ほかのほとんどの環境にも同じことが言えます。そういった環境には、銀河間空間よりも多くの物質やエネルギーがあり、証拠が入手しやすいからです。クエーサーのジェットの内側では知識の創造を認めないかもしれませんが、
奇妙な話ですが、私たちの思考実験に登場した空想的な宇宙ステーションというのは、宇宙船地球号のメタファーに出てくる「宇宙船地球号」にほかなりません。ただし異なるのは、その住人は決してそれを改善しないという非現実的な前提を、私たちは除外している点です。そのため、宇宙ステーションの住人はおそらく、死をいかに免れるかという問題をずっと以前に解決しているので、「世代」はその宇宙船の仕組みとして不可欠なものではなくなっています。改めて考えると、人間が生きていく環境ははかなく、生物圏からの支えに依存しているという主張を劇的に表すには、世代宇宙船という考え方はあまりよくない選択肢でした。こうした主張は、宇宙船がもつ可能性と矛盾するからです。宇宙空間を進む宇宙船のなかでいつまでも暮らすことが可能であれば、その同じテクノロジーを使って地球の上に住むことの方がはるかに可能性が高いはずです。
宇宙的な枠組みにおける知識の重要性、人々の重要性
人々よりも明らかに重要なものは数多くあるように思えます。時空はほかの物理現象の説明のほぼすべてに出てくるので、重要です。電子と原子も同様です。そうした地位の高い仲間の中に、人間の居場所はなさそうです。人間の歴史や政治、科学、芸術、哲学、野心や価値観はすべて、数十億年前の超新星爆発の副次的影響であって、さらに言えば、別の超新星爆発により明日にでも消滅してしまう可能性があります。その超新星も、宇宙的枠組みのなかでは程々に重要といった程度です。それでも、人々や知識についてまったく触れなくても、超新星や、ほかのほぼすべてのものについて説明できるように思えます。
しかしこれはまた別の偏狭な誤解にすぎません。長期的に見れば、人間はほかの惑星に移住するかもしれませんし、知識を増やすことでこれまで以上に強力な物理プロセスを制御するようになるかもしれません。爆発の可能性のある恒星の近くに住む人々は、その恒星から物質をある程度取り除くことで、爆発を防ぎたいと考えるでしょう。これは適切な知識があれば達成可能です。おそらく、宇宙のほかの場所にいるエンジニアはすでに、そうした作業をごく普通に行っているでしょう。それゆえ、超新星の特徴が一概に、人々の存在や不在、あるいはそうした人々の知識や意図と独立であるというのは事実ではありません。
知識のもつ意味合いはさらに深いものです。知識なくして、シリコンチップは作れません。恒星は自然に生まれますが、知識を使えば、その恒星をマイクロチップに変換できます。絶対零度100万分の1度に冷えるメカニズムを説明するには、人々の関与について詳しく説明しないわけにはいきません。
それだけではありません。クエーサーが発生すると、数十億年後には、どういうわけか宇宙の反対側で、化学的な浮きカスがそのジェットの振る舞いを予測し、その理由を理解できるようになっています。それは、一つの天文学者の脳という物理的システムのなかに、ジェットという別の物理システムの正確な模型が入っていることを意味します。そこには、同じ数学的関係性と因果構造を具現化する、説明的理論が含まれています。それが科学的知識です。さらには、一方の構造が他方の構造にどのくらい似ているかという忠実度は、どんどん高まっていきます。それが知識の創造です。自然に発生するあらゆる物理プロセスのうち、そうした基本的な均一性を示すのは知識の創造だけです。
プエルトリコのアレシボには巨大な電波望遠鏡があります。この望遠鏡のさまざまな用途のうちの一つは、「地球外知的生命体探査(SETI)」プロジェクトです。これは地球外文明によって送信された電波を検知するというミッションです。SETIの観測装置は、遠く離れた恒星の軌道を回る惑星にある微妙な化学的性質という、今まで一度も検出されたことのない現象を検出することに適応しています。生物進化は、そうした適応を生み出せていません。これは非説明的知識が普遍的にはなりえない理由を示しています。非説明的なシステムでは、説明的な推量が超えている概念のギャップを超えて、未経験の証拠や存在しない現象に関与することは不可能です。
人間や人々、知識は、客観的に重要というだけではなく、本質的に飛び抜けて重要な現象だということになります。
スパーク
最後に、環境の自発的な振る舞い(知識がない状況)と、適切な種類の知識がごくわずかに届いた後のその環境の振る舞いの間にある、大きな違いについて考えます。私たちは普通、月面基地を、自給自足の状態になった後でも、地球上に由来するものと考えます。しかし、物質は長期的にはすべて月由来になりますし、エネルギーは太陽に由来しています。月面にある知識の一部だけが、地球から来たものです。仮説として、月面基地が完全に孤立しているケースであれば、地球由来の知識の割合は急激に少なくなるでしょう。月に変化を起こしたのは、物質そのものではなく、それがコード化していた知識です。そうした知識に反応して、月の物質は自らを、新しく、ますます広範囲で複雑な方法で組織し直し、以前よりも良い説明を絶え間なく作り出すようになりました。無限の始まりです。
同様に、銀河間空間の思考実験では、私たちは典型的な立方体空間に「準備をしておく」ことを想定しました。その結果、どんなときでも、銀河間空間自体が前よりも良い説明を次々と作り出すようになりました。変換された立方体は、その質量が一点に集まり、質量をエネルギーに変換しています。そこには多くの証拠がありますが、そのほとんどは立方体のなかで生み出されたものです。変換された立方体は急速に変化します。何より、変換された立方体は誤りを修正します。
とはいうものの、ほとんどの環境はまだ、どんな知識も創造していないように見えます。私たちは、地球とその近傍を除き、知識を創造している環境を知りません。私たちが目にするほかの場所の状況は、知識の創造が広まった場合に予想される状況とは大きく異なっています。しかし宇宙はまだ若いです。現在何も創造されていない環境でも、将来はそうするかもしれません。遠い未来に典型的なものが、現在典型的なものとは大きく異なる可能性もあります。
用語解説
人(人々,Person):説明的知識を生み出すことのできる実体。
人間中心主義(Anthropocentric):人間あるいは人々を中心に考えること。
基本的または重要な現象(Fundamental or significant phenomenon):多くの現象の説明において必要な役割を担う現象。またはその独特の特徴が、基本的理論の観点からみて独特の説明を必要とする現象。
平凡の原理(Principle of Mediocrity):「人間は重要ではない」とする考え方。
偏狭思考(Parochialism):見かけを現実と混同したり、局所的な規則性を普遍的な法則と混同すること。
宇宙船地球号(Spaceship Earth):「生物圏は人間の生命維持装置だ」という考え方。
コンストラクター(Constructor):それ自体は正味の変化をまったく被ることなしに、ほかの物体にさまざまな変換を起こすことのできる装置。
ユニバーサル・コンストラクター(普遍的な建設者,Universal constructor):適切な情報があれば、あらゆる原材料に、物理的にあらゆる変換を引き起こせるコンストラクター。
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書評
本章の中でのドーキンス批判は、おそらく2005年TED Globalでの講演がもとになっているのではないかと思います。二人の講演はいずれも見応えがあります。順番にどうぞ。
その後登壇したドイチュの講演
このドイチュの講演内容は本章での議論そのものです。
2018年には上のインタビューを踏まえてさらに掘り下げた議論がなされています。
ドイチュはこのインタビューのなかで
「140億年間、宇宙は退屈な物理現象の繰り返しでした。ここでは大きいものが小さいものにほぼ一方的に影響を与えます。そして、最近になり、相転移(phase change)が起こり、創造性が生まれました。 相転移の後は、小さなものが大きなものに影響を与えるようになりました。決定的な要因は力、質量、エネルギーではなく、情報です。さらに言えば、
と述べます。知識の定義は現在のところ、これが最も良いと思います。本章で詳説されたコンストラクターという単語は「コンストラクター理論」でのそれと同じ意味でしょう。
『無限の始まり』第2章「実在に近づく」
この章は全体の中で最も短く、原書では8ページです。一章として独立させているのは、理論と実在の関係の説明がとりわけ重要だと考えてのことでしょう。ドイチュは大学院生時代の銀河観測の体験を綴りながら、「科学研究はほとんど知性を必要としない労役だ」といった評判を否定し、研究者と実在の関係について説きます。
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努力とひらめき
天文学者たちは比較的最近まで、銀河団を顕微鏡越しに観測してました。こうしたガラス乾板では、恒星や銀河は黒い形に、背景の宇宙空間は白く写っています。
このぼやけた物体は銀河です。一方、輪郭のはっきりした点は銀河系内にある恒星で、銀河よりも何千倍も近い距離にあります。この仕分け作業は見かけよりも難しいものです。輪郭がはっきりしていない銀河などは、周縁部がどのくらいぼやけているかといったことに注意を払う必要があります。研究者は経験則でこの作業をしていました。そうした作業は現在ではコンピュータープログラムに置き換えられています。
研究者はガラス乾板をカタログ化しながら、その銀河の一つについて考えをめぐらせ、その作業でしか感じることのない奇抜なアイデアを思い浮かべることもあるでしょう。同じ作業をコンピューターが行う中では、新しいアイデアは生まれません。言い換えれば、コンピューターが何も考えずに作業を行えるからといって、その作業を科学者が行う場合にも何も考えていないということにはなりません。
トーマス・エジソン(Thomas Alva Edison,1847-1931)は「私の発明には偶然生まれたものはない。満たす価値がある必要性を見出したら、私はそれが実現できるまで何回も実験を繰り返す。つまるところ、1パーセントのひらめきと99パーセントの努力なのだ」と言いましたが、彼は自らの体験を誤解しています。天体カタログを作り暗黒物質の存在を証明した天文研究者も、実験を繰り返して世紀の発明に至ったエジソンも、発見の「努力」の段階を、何も考えずに行っていたはずがありません。コンピューターとは異なり、人間は創造的で楽しい思考という方法を用います。
理論と実在
ガラス乾板の、非常に小さな感光剤のしみを通して、天体研究者は何を見ているのでしょうか。
私たちは銀河団のある方向の夜空をただ見上げただけでは何も見えません。望遠鏡、カメラ、写真を現像する暗室、乾板の写しを作る別のカメラ、乾板を運ぶトラック、そして顕微鏡を通すことで、私たちは銀河団を見ることができました。最近の天文学者は望遠鏡を覗くことはほとんどありません。観測機器が検出するのは目に見えない電磁波のシグナルであり、これはデジタル化されたのちコンピューターによる処理と分析がかけられます。これがグラフや図となり、天文学者の感覚に影響を与えます。日常生活から遠く離れた現象の理解が進むほど、物理的な隔絶の層は増え、結果として認知したものと実在とを関連づけるための高いレベルの理論と解釈の鎖が必要となります。
科学が出した結論は長い時間をかけて実在により忠実なものになってきました。科学による良い説明の探求は、誤りを修正し、偏見や誤解を招きやすい観点を考慮に入れ、そのギャップを埋めます。科学的な真実は、このような理論と物理的実在の対応によって構成されているのです。
天体望遠鏡に限らず、粒子加速器や電子顕微鏡など、すべての観測機器は物質の配置としてはまれな状態で、かつ脆弱です。説明的理論は、私たちに、奇跡をきちんと起こせるような、科学機器の製作と操作の方法を教えてくれます。それは奇術を逆にしたようなもので、私たちの感覚は科学機器にだまされて、実際にそこにあるものを見るのです。人間は触れられるほど近くにある人工物に目を向けています。しかし、その理性は、何光年も離れたところにある、異質な物体やプロセスに向けられています。天体研究者は、本当に銀河を見ているのです。
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書評
科学機器の役割にも着目し、科学の有り様を説いた科学哲学としてはラトゥールによる議論が有名ですが、ドイチュの議論を踏まえてラトゥールに戻ると、その議論が支離滅裂だとはっきりわかります。
ラトゥールは、「科学の予言が実現しなかった」ケースが、「そのネットワークに穴が空いて駄目になった」ためだと主張します。
テクノサイエンスのもつ予言可能という性格は、ネットワークをさらに拡大する能力に完全に依存している。外部と実際に遭遇するやいなや、全くの混沌が生じる…この依存性と脆さは科学の観察者には感じられない。なぜなら、「普遍性」が物理学や生物学や数学の法則を「原理的には」いたるところに適用可能だとしているからである。「実際は」まったく違う。ボーイング747は原理的にはどこにでも着陸できると言えるだろう。しかし、実際にニューヨークの五番街に着陸させようとしてみよ。電話は原理的には普遍的につながっていると言えるだろう。サンディエゴにいる誰かに、ケニアの真ん中にいる実際は電話をもっていない人に電話をかけさせてみよ。オームの法則は原理的に普遍的に適用可能であると主張することは大変理にかなっている。電圧計と電力計と電流計なしに実際に証明してみよ…
ブルーノ・ラトゥール『科学が作られているとき』
ある説明がどのようなリーチを持つのかは、その説明の内容で決まります。ボーイング747と電話の例を持ち出して「普遍性が許されるのはネットワークの内部のみ」であると主張するのは、説明を一切拒否した上で成り立つ議論ですよね。「オームの法則を科学機器なしに証明してみよ」という要求に至っては実在論を否定することで生まれる発想だとしか理解できません。物理法則は普遍です。