現代啓蒙

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『無限の始まり』第1章「説明のリーチ」

『無限の始まり』要約記事 全体目次 第1章「説明のリーチ」(The Reach of Explanations)
第2章「実在に近づく」(Closer to Reality)
第3章「われわれは口火だ」(The Spark)
第4章「進化と創造」(Creation)
第5章「抽象概念とは何か」(The Reality of Abstractions)
第6章「普遍性への飛躍」(The Jump to Universality)
第7章「人工創造力」(Artificial Creativity)
第8章「無限を望む窓」(A Window in Infinity)
第9章「楽観主義(悲観主義の終焉)」(Optimism)
第10章「ソクラテスの見た夢」(A Dream of Socrates)
第11章「多宇宙」(The Multiverse)
第12章「悪い哲学、悪い科学」(A Physicist's History of Bad Philosophy)
第13章「選択と意思決定」(Choices)
第14章「花はなぜ美しいのか」(Why are Flowers Beautiful?)
第15章「文化の進化」(The Evolution of Culture)
第16章「創造力の進化」(The Evolution of Creativity)
第17章「持続不可能(「見せかけの持続可能性」の拒否)」(Unsustainable)
第18章「始まり」(The Beginning)

私たちの知識が何に由来するのか、という問題は知識論という哲学の一分野の最大のテーマです。 ポパーは科学と非科学の違いについて、「テスト可能性」が「境界設定基準」であるとし、帰納法を退け、反証主義と可謬主義に基づく方法論を確立しました。ポパーは同時に、「説明」が重要であるとも説いていました。

※各章の目次の英語部分は原書のものです。原書のタイトルもあるとわかりやすいと思ったので、掲載しました。

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知識の由来についての議論の始まり—経験論

科学の歴史の大半において、科学理論は、私たちが自らの感覚という証拠から「導き出して」いるという誤った理解がなされてきました。ジョン・ロック(John Locke,1632-1704)は「心は『白紙』のようなもので、感覚的経験はそこに書き込まれていき、そこからわれわれは現実世界に関するあらゆる知識を導き出す」と主張しました(『人間知性論』(1689)での議論)。そうした哲学上の学説は「経験論」として知られています。しかし現実には、科学理論は何かから「導き出される」のではありません。私たちが自然から「読み取る」ことも、自然が私たちに「書き込む」こともありません。科学理論は、大胆な推量に他なりません。既存のアイデアをより良いものにしようという意図をもち、人間の心がそれらを整理し直し、組み合わせ、変更し、追加することによって、科学理論は生み出されます。経験は必要ですが、その主な用途はすでに推測されている複数の理論のなかから選択することです。科学理論は推測であり、経験は複数の競合理論から選択する上で意味をもつという事実は、20世紀中ごろにカール・ポパー(Karl Raimund Popper, 1902-1994)の研究が世に出るまでは正しく理解されていませんでした。

歴史的には、私たちが知るような実験科学をはじめて弁護したのは経験論でした。経験論の立場を取る哲学者たちは、聖職者や学者といった人間や、聖典などの古代の書物といった権威に服従することを拒否しました。また、伝承や不正確な経験則、聞き伝えを信じるといった、伝統的な知識獲得方法も否定しました。経験論はまた、「感覚は誤りの源なので無視するべき」という根深い考え方も否定しました。経験論者は新しい知識を得る方向性を志向していました。これは、あらゆる重要なことはすべて決まっていると考える中世の運命論とは対照的です。

経験論は、科学的知識の起源については間違っていましたが、哲学と科学史における偉大な一歩でした。

 

経験論の論理付けの試み、その失敗

しかし、経験論者は「経験したことがないものについての知識を、経験したことがあるものについての知識からいったいどうやって”導き出せる”のか?」という懐疑的な人々からの指摘には十分に答えられませんでした。

一般通念としては「繰り返し」が重視されてきました。これによれば、私たちは「同じ状況にあればかならず、その経験をする、あるいはおそらくする」という理論を「導き出す」とされています。したがって、人は過去の経験や出来事から、未来に関するより信頼性の高い知識を得られる、つまり、個別の知識から、一般的な知識を得られるといいます。このようなプロセスは「帰納的推論」あるいは「帰納法」とよばれます。科学理論とは帰納法で得られると主張する学説は、帰納主義とよばれます。

帰納主義者の一部は、その論理の飛躍を埋めるために、「帰納原理」が存在すると主張します。帰納原理として有名なのは「未来は過去に似ている」というものです。また「遠くは近くに似ている」「見えないものは見えるものに似ている」という言い方もあります。実験から科学理論を得るのに実際に役立つ「帰納原理」を打ち立てた人はいません。歴史的には、帰納主義に対する批判は、そうした原理が打ち立てられないことに向けられてきました。しかし、そうした批判のやり方は帰納主義を甘やかしています。帰納原理を打ち立てることはできません。

天体物理学が対象とするのは、私たちが空を見たときに見えるもの、ではなく、恒星とは何か、つまりその組成、光り輝く理由、形成プロセス、そして恒星形成の原因となる普遍的な物理法則です。そのほとんどは、これまでに観測されたことはありません。物事がどのように見えるかという予測は、物事がどのような状態にあるかという説明から導き出されます。そのため帰納主義では、私たちがどのようにして恒星や宇宙が何であるかを理解し、それが単なる空の点とは違うと知っているのかという問題にすら答えられません。

帰納主義の原理と目されている「未来は過去に似ている」あるいはそれと類似の主張もまた、間違っています。現実には、未来は過去に似ていません。見えないものは見えるものとはかなり違います。科学は、それまでに経験されたことのない現象を予測します。たとえば1945年以前には核分裂による爆発を見た人はいませんでした。しかし核分裂による爆発と、その起爆条件は正確に予測されていました。

帰納主義は誤りです。そして、帰納主義が誤りであれば、経験論も誤りであるはずです。

 

経験論は偽りの権威を生み出した

経験論は、伝統的権威を排しました。しかし、科学を権威から開放するという目的を達成することはありませんでした。経験論は二つの偽りの権威を打ち立ててしまっています。一つは感覚的経験、もう一つは、経験から理論を抽出するために用いることを想定した、帰納法などの「導出プロセス」です。

知識が信頼できるものであるためには権威が必要だという考え方は、いまだに広く行き渡っています。知識論の授業の多くでは、知識とは「正当化された真なる信念」だと教えています。ここで「正当化された」というのはある種の権威筋あるいは知識の基準に照らしたうえで「真である」と見なされるという意味です。そうなると「われわれはどうやって〜を知るのか」という疑問は「どの権威に照らしたうえで、われわれは〜と主張するのか?」と変形されます。この形の疑問は、他のどんなアイデアよりも、多くの哲学者の時間と労力を浪費してきました。それは、真実の探求を、確かさ(これは感情の問題)の探求、あるいは承認(社会的地位)の探求へと変えてしまいます。この誤解は「正当化主義」と呼ばれます。

一方で、権威ある知識の源も存在しないし、アイデアが真である、または確からしいと正当化するための信頼しうる手段も存在しないという認識は「可謬主義」と呼ばれます。可謬主義者は、自分たちの最善かつ最も基本的な説明にさえ、真実だけでなく、誤解が含まれていると考えます。そして、そうした説明を良い方向へ変えようと努力する傾向にあります。
可謬主義の論理は、過去の誤解を修正しようとするだけでなく、現在は誰も疑問に感じていない、あるいは問題だと気づいていないけれども実際には誤ったアイデアを、将来的に発見して、変えたいと考えることです。限りない知識の成長の開始、すなわち無限の始まりにとっては、単なる権威の否定ではなく、可謬主義が不可欠なのです。

 

鍵は「権威への抵抗」か?

私たちの祖先は夜空を見上げ、星と私たちの関係を理解したいと考えたことでしょう。また、暮らしのあらゆる側面において進歩する方法を知りたいとも考えたでしょう。場合によっては、そうした宇宙レベルの基本的現象と実用レベルの進歩に関係があることに気付くこともあり、そうした中で私たちの祖先は神話を作りました。しかし、その内容は真実には似ていません。私たちの祖先は、進歩するために知識を創造したいと考えたものの、方法がわからなかったのです。

その時代が、人類の先史時代のごくはじめから数世紀前まで続きました。その後、新しくて力強い発見と説明の様式が登場し、後に「科学」と呼ばれるようになります。科学の登場は「科学革命」と呼ばれます。科学は著しい速度で知識を創造することにほぼ即座に成功し、その速度は加速し続けています。

科学革命以前には失敗していた現実世界の理解に、科学が効果的だったのはなぜでしょうか。この時代にはじめて行われたことで、効果を生み出したのは何だったのでしょうか。 この疑問に対する答えは多く出されましたが、これまでにこの問題の核心に届いているものはありませんでした。

科学革命は、「啓蒙運動」という、より幅広い知的革命の一部でした。この啓蒙運動は他の分野、とりわけ倫理学と政治哲学、社会制度において顕著な影響を及ぼしました。「啓蒙運動」は学者によってさまざまに解釈されましたが、いくつかある啓蒙運動の概念すべてに共通するのは、それが「抵抗」、特に知識に関する権威への抵抗だったことです。

知識に関する権威を否定することは、抽象的な分析の問題ではなく、進歩のための必要条件でした。というのは、啓蒙運動以前には、知りうる重要なことはすべて発見し尽くされ、古文書や伝統的な仮説といった権威ある知識の源に納められていると広く信じられていたからです。こうした知識の源は、一部に正しい知識を含んでいるものもありましたが、多くの誤りを伴うドグマという形で確立していました。したがって、進歩はこうした権威を否定する方法を学ぶことにかかっていました。世界最古のアカデミーの一つであり、1660年にロンドンに設立された王立協会が「nullius in verba(誰の言葉も権威としない)」をモットーとしたのはそのためでした。

 

鍵は「批判の伝統」あるいは「テスト可能性」か?

しかし、啓蒙運動において効果があったのは、権威への抵抗そのものではありませんでした。歴史的には権威が否定されることは何度もあったのです。しかし、普通はその後に新しい別の権威が入れ替わるだけでした。啓蒙運動で顕著だったのは、「批判の伝統」でした。啓蒙運動以前はそれは非常に稀な習慣で、一般的には物事を同じ状態に保つことが重要とされていました。したがって啓蒙運動とは、知識を探し求める方法についての革命でした。そのために、権威に頼らずに知識を得ようとしたのです。経験論が科学の仕組みという概念においては根本的に間違っていて権威的であったにもかかわらず、非常に有益な歴史的役割を果たしたのはこうした前後関係があったからです。

この批判の伝統によって生じた結果として、科学理論は「テスト可能」でなければならないとする方法論上のルールが生まれました。すなわち、科学理論が誤りなら、その理論が立てる予測は、実施可能な観測の結果から反論できるということです。したがって、科学理論は経験から導き出されないものの、経験(すなわち、観測または実験)によってテストできます。たとえば、かつて化学者は、元素変換は不可能だと考え、多くの実験でそれを確かめていました。やがてラザフォード(Ernest Rutherford, 1871-1937)とソディ(Frederick Soddy, 1877-1956)が、ウラニウムは自然に他の元素に変換するという、大胆な予測を行いました。そして二人はウラニウムを入れた密封容器内でラジウム元素が生成されることを実証します。それまで支配的だった理論が反証できたのは、以前の理論がテスト可能だったから、つまりラジウムの存在を検証することが可能だったためです。あらゆる物質は土、空気、火、水の4つの元素の組み合わせで構成されているという古代の理論は、テスト不可能です。この説には、そうした元素の存在をテストする方法が何一つ含まれていないためです。啓蒙運動は、根本においては哲学上の変化でした。

ガリレオ・ガリレイGalileo Galilei, 1564-1642)は、おそらく実験テストの重要性をはじめて理解した人物であり、「自然の書物を読む」ことと勘違いされがちな、他の種類の実験や観測と区別しました。ガリレオは実験によるテストを、厳しい試練による吟味を意味する「チメント」と呼び、他の種類の実験や観測とは区別していました。テスト可能性は現在は科学的手法を定義づける特徴として広く受け入れられており、ポパーはこれを科学と非科学の「境界設定基準(criterion of demarcation)」と呼びました。

 

「テスト可能性」では不十分

とはいえ、テスト可能性が科学革命の決定的要因だったわけではありませんでした。一般に言われるのとは逆に、テスト可能な予測はそれ以前からずっと、きわめてありふれたものでした。たとえば「次の火曜日に太陽が昇る」と予言する自称預言者にも、「何だか今夜はついている気がする」というギャンブラにも、テスト可能な理論があります。では、科学にはあって、預言者やギャンブラーのテスト可能な理論にはない、進歩を可能にする不可欠な材料とは何でしょうか。

科学において理論がテスト可能というだけでは十分でないのは、理論による予測が科学の目的ではないし、目的とすることもないからです。奇術を見る観客を例に考えます。観客が直面している問題は、科学的問題と論理の点でかなり似ています。いずれの場合でも、見た目がそのまま説明になっているわけではありません。奇術の説明が目で見てはっきりわかってしまえば、奇術になりません。同じように、物理現象の説明が見た目ではっきりわかるようなら、経験論は事実であり、私たちが知っている形での科学は不要となります。

奇術を何度も見れば、私たちはそのショーの結果を予想できるようになります。しかし、それはその奇術の仕組みという問題に取り組んでいません。もちろん解いてもいません。その問題を説くのに必要とされるのは説明です。この説明は、見た目を説明する、実在についての言明です。

 

説明を必要としない「道具主義」という考え方 

奇術の仕組みを知りたいなどと思わず、ただそれを面白がる人々もいるかもしれません。同じように、20世紀は、多くの哲学者が、そして多くの科学者も、科学には実在について何かを発見する能力はないという立場を取っていました。経験論から出発した議論は、科学が有効な形で行えるのは観測結果の予測までであり、科学はその観測結果を引き起こす実在を記述するものと称するべきではないということです。この考え方は「道具主義」と呼ばれています。

道具主義は、「説明」の存在を完全に否定します。その考え方は今でも非常に影響力があります。いくつかの分野(統計分析など)では、「説明」という言葉自体が予測を意味するようになっており、数式が一連の実験データを「説明する」という言い方をします。彼らの中では、「実在」には、その数式によって近似される「観測データ」という意味しかありません。そこには、実在そのものについて主張するための用語はなく、あるものは多分「便利なフィクション」です。

道具主義は、「実在論」を否定する数多くの考え方の一つです。実在論とは、物理的世界は実際に存在し、合理的探求が行えるとする、常識的で事実に反しない学説です。実在論をいったん否定してしまうと、論理的な意味合いとしては、実在についてのあらゆる主張は神話と等しくなり、いかなる客観的な意味においても、ほかの主張より優れた主張は存在しないことになります。これは「相対主義」です。相対主義とは、特定の分野における言明が客観的に真または偽ということはありえず、よくても文化的基準あるいはほかの恣意的な基準に対して相対的に判断されるだけだという学説です。 

道具主義は、科学を人間の経験に関する言明に格下げするという、哲学上の大罪を犯しています。しかしそれだけでなく、その定義自体が意味をなしていません。なぜなら、純粋に予測的で、説明を必要としない理論などというものは存在しないからです。

 

経験則も説明を伴う

知られていて、かつ議論にならない知識を「背景知識」といいます。予測的理論で、説明に背景知識しか含まれないようなものは、「経験則」と言われます。背景知識は通常、当たり前のものと考えられているので、経験則は説明を伴わない予測に思えるかもしれませんが、それは常に幻想です。

私たちがそれを知っていようといまいと、経験則が機能する理由は、かならず説明がつくものです。自然のなかの規則性に説明があることを否定するのは、事実上、超常現象を信じることと同じです。つまり、「それは奇術じゃない、本当の魔法なのだ」と言うようなものです。また、ある経験則が通用しない場合についても、かならず説明があります。一般に経験則というものは偏狭です。よく知っている狭い範囲の状況にしか当てはまりません。たとえば、コップとボールの手品に、通常と違う要素が導入されれば、私が先ほど述べた経験則が誤った予測をしがちになります。ボールではなく、火を灯したろうそくで同じ奇術ができるかどうかは、先ほどの経験則からはわからないのです。しかし、その奇術の仕組みについての説明があれば、できるかどうかは判断できます。 

 

問題=相反するアイデアを経験する状況

実験的テストの本質は、問題となっている点について、見たところ現実味のある理論が少なくとも二つ知られている場合に、それらについて実験によって区別可能な、相反する予測を行うことです。相反する予測が実験と観測の好機になるのと同様に、広い意味での相反するアイデアは、あらゆる合理的な思考や探求の好機になります。たとえば、私たちが何かについて知りたがるのは、既成のアイデアではその何かの理解や説明に不十分だと考えているという意味です。相反するアイデアを経験するような状況を、私は問題と呼びます。問題を解くということは、不一致のない説明をつくり出すことを意味します。

もともと「支えのない物体は落ちる」とか、「光には燃料が必要で、それはゼロになることがある」という予想(つまりは説明)があり、そうした予想が、星がずっと光り続け、落下することもないという、見えているものの解釈(これも説明)と矛盾しているという状況がなければ、誰も「星とは何か」という疑問を抱かなかったでしょう。この場合、間違っていたのは解釈のほうでした。実際には星は自由落下しているし、燃料も必要です。しかし、そうなる理由を発見するには、かなりの推量と批判、そしてテストが必要でした。

問題というのは、観察なしで、純粋に生じることもあります。たとえば、ある理論が、私たちが予想していなかった予測を行うという問題があります。予測は理論でもあるのです。同様に、物事の今ある状態(私たちの最善の説明に従う)が、あるべき状態(つまり、それがどうあるべきかという私たちの現行の基準に従う)と一致しない場合には、問題となります。

理論は互いに相反することもありますが、実在が相反することはないので、あらゆる問題の存在は、私たちの知識が不完全または不正確だということを示唆しています。私たちの誤解は、観測している実在、あるいはその実在と私たちの知覚の結びつき方、あるいはその両方についてでしょう。

 

神話は「テスト可能な説明的理論」だ

しかしテスト可能な説明的理論でも、進歩がない状態とある状態の違いを生み出した決定的要因とはなりえません。そうした理論も、昔から一般的だったからです。古代ギリシャ神話は、季節を説明しています。

遠い昔、冥界の神であるハデスは春の女神ペルセポネを略奪して妻とした。そこでペルセポネの母である大地と農業の女神デメテルは、ペルセポネを取り戻すため、年に一度は冥界のハデスを訪れることを余儀なくさせる魔法の果実を食べさせる取り決めを行った。ペルセポネが地下の国にいる間、悲しみにくれたデメテルは、世界に対して寒くなるよう命じた。

この神話は、完全な誤りですが、季節の説明にはなっています。その説明は、冬という経験をもたらす実在について主張しています。それはまた、テスト可能だという点でも抜きんでています。デメテルが定期的に悲しむことが冬の原因なら、冬は地球のあらゆる場所で同時にやってくるはずです。したがって、デメテルが悲しみの最中にあるとされていたまさにその時期に、オーストラリアでは植物が育つ暖かな季節になることを古代ギリシャ人が知っていたら、季節についての自分たちの説明は何か間違いがあると推測したはずです。

しかし数世紀のあいだに、神話は変化したり、ほかの神話に取って代わられたりはしても、新しい神話が真実に近づくことはほとんどありませんでした。なぜでしょうか。

スカンジナビア地方の神話では、春の神フレイは寒さと暗闇の力に対して、永遠の戦いを続けており、そうしたフレイの戦況が絶えず変わることで、季節が生じるとされていました。フレイが勝てば地球が暖かくなり、負ければ寒くなるのです。

ペルセポネ神話とフレイ神話は、実際にある季節の原因について、根本的に矛盾する内容を主張しています。しかし、誰も二つの神話の長所を互いに比べたうえで、どちらかを選択したわけではないはずです。それは、二つの神話を区別する方法はないからです。どちらの神話にもある、役割を簡単に置き換えられる部分を全て無視すれば、どちらの場合にも残るのは「神々がそれを行った」という、同じ基本的な説明です。

こうした神話がとても簡単に変更できるのは、それらの細かい部分が、現象自体の細かい部分とほとんど関連していないからです。結婚の取り決めや魔法の果実、あるいはペルセポネやハデス、デメテル、フレイといった神々を具体的に考えたところで、そうした細かい部分は、なぜ冬になるのかという問題にはまったく対処していません。さまざまな異なる理論が、説明しようとしている現象を同じようにうまく説明できる場合、そのなかの一つが他よりも良いと考える理由はありません。

 

神話は「悪い説明」だ

ペルセポネについての説明を少し変えれば、緑色の虹がかかるような季節もうまく説明できます。あるいは季節が一週間に一度めぐってきたり、規則性もなく突然起こったり、まったく起こらなかったりすることも説明できてしまいます。迷信を信じるギャンブラーや、終末論を唱える預言者も同じです。彼らは、その理論が経験によって反証されると、新しい理論に切り替えます。しかしその根底にあるのが悪い説明なので、彼らはその説明の本質を変えることなく、新しい経験を簡単に受け入れることができます。ある説明が、特定の分野では何でも簡単に説明できるのなら、それは実際には何も説明していないのです。

一般的に、ここまで説明してきたような意味で理論が簡単に変更可能である場合、実験的テストを行っても、その理論の誤りを修正するにはほとんど役立ちません。私はそうした理論を「悪い説明」と呼びます。

良い説明の探求は、科学だけではなく、啓蒙運動全般の基本的な調整原理であると、私は考えています。良い説明の探求は、知識に対する啓蒙主義のアプローチを、他のアプローチから区別する特徴であり、私が議論してきた科学的進歩のための他のあらゆる条件を暗示しています。つまり、予測だけでは不十分だということを、簡単な形で暗示しているのです。良い説明の探求は、批判の伝統の必要性も暗示しています。さらには、方法論的な規則(「実在の基準」)も暗示しています。すなわち、特定のものが現実であると結論すべきなのは、それが何かについての最善の説明にかかっている場合だけなのです。

 

良い説明であることは科学理論の必要条件

啓蒙運動や科学革命の先駆者たちは、直接そのように言っていませんが、良い説明を探求することは当時の時代精神でしたし、それは今でも変わりません。彼らは良い説明の探究によって、思考をはじめました。良い説明の追求を系統だって行ったのは、彼らがはじめてでした。良い説明の探究こそが、あらゆる種類の進歩の速度に、非常に大きな効果を及ぼしたのです。これまでの神話と科学の違いについての記述のほとんどは、テスト可能性の問題を重視しすぎていました。

科学においては、数のうえでは圧倒的に多い間違った理論を、実験をせずに、悪い説明というだけですぐに却下してかまいません。そうでなければ、科学というものは不可能です。

良い説明は、際立って単純であるか、エレガントであることが多いものです。また、悪い説明として一般的なのは、必要以上の特性や恣意性を含む説明であり、それらを取り除けば良い説明が生まれることもあります。ここから生まれたのが、オッカムの剃刀」として知られる誤解です(この名称は14世紀の哲学者ウィリアムのオッカムにちなんでいるが、考え方自体は古代からある)。オッカムの剃刀とは、人はいつでも「最も単純な説明」を探求すべきだという考え方です。その言明の一つには、「必要以上に前提を増やすべきではない」というものがあります。しかし、非常に単純な説明でも、変更が簡単にできてしまうものは数多くあります(「デメテルのしわざである」という説明など)。たしかに「必要以上」の前提は明らかに理論の質を落とします。しかし、ある理論にとって何が「必要」かについては、多くの誤ったアイデアが存在してきました。たとえば道具主義では説明自体を不要としています。第12章で議論するように、ほかの多くの悪い科学哲学でも同じように考えています。

最善の説明とは、既存の知識に大きく束縛される説明であり、そうした知識には、他の良い説明だけでなく、説明すべき現象についての他の説明も含まれます。

 

良い説明に備わる性質 

自転の傾き説は良い例です。この説はもともと、太陽の高度角が一年間で変化するのを説明するために提案されたものです。熱と回転する物体についての少しの知識を組み合わせることで、それは季節の説明になりました。さらに修正を加えなくても、季節が北半球と南半球で逆になっている理由や、熱帯地方には季節がない理由、そして極地方では夏の真夜中に太陽が輝く理由も説明しています。これら三つの現象について、自転軸の傾き説の創造者はおそらく気付いていませんでした。

説明のリーチは、「帰納原理」ではありません。説明のリーチは、説明の創造者が、説明を見つけたり、正当化したりするために使えるものではなく、創造的プロセスの一部ではないのです。説明を見つけてからでなければ、説明のリーチには気づきません。ずっと後になってから気づくこともあります。つまり、それは「外挿」や「帰納」といった、理論を「導き出す」方法とされるものとは関係がありません。むしろまったく逆です。季節の説明が、その創造者の経験のはるか外まで及ぶのは、まさにそれが外挿される必要がないからです。説明というのは本質的に、創造者がはじめて思いついたときにはすでに、地球のもう一つの半球で、そして太陽系全体、ほかの惑星、さらには別の時間で、適用されているのです。

説明のリーチは、説明自体の内容によって決まります。説明が良いほど、そのリーチはより厳密に決定されます。ある説明を変更するのが難しいほど、異なるリーチをもつ依然として説明として成り立つような別の説明を特に作りだすのは難しいからです。私たちは、火星でも重力の法則は地球と同じだと予想します。それは重力の説明として現実的なものはただ一つ、アインシュタイン一般相対性理論しか知られておらず、それが普遍的な理論だからです。しかし私たちは火星の地図が地球の地図と似ているとは予想しません。地球がどう見えるかについての私たちの理論は、優れた説明ではありますが、ほかの天体の見た目に対するリーチはないからです。ある状況のさまざまな側面のうち、どれがほかの状況に「外挿」できるかについては、常に説明的理論からわかります。普通は外挿できる側面はほとんどありません。

 

経験則について語ることも説明で有意義となる

説明的でない形式の知識、たとえば経験則や、遺伝子に内在する生物学的適応のための知識のリーチについて語ることにも意味があります。しかし、それがどんな種類なのかは、なぜその経験則が通用するのかという説明がなければわかりません。

良い説明の探求が行われなかった古い時代の思潮では、誤りや誤解を修正するための、科学のようなプロセスが認められていませんでした。進歩はまれにしか起こらなかったため、ほとんどの人はそれを経験することもありませんでした。アイデアには長いあいだほとんど変化が起こりませんでした。悪い説明であれば、たとえそのなかでは最善の説明であっても、普通はリーチがほとんどなかったので、その昔からの用途以外では(ときにはそうした用途の範囲内でも)脆弱で信頼できませんでした。

 

説明は「無限の始まり」か

科学、より広義には私が「啓蒙運動」と呼ぶものの登場は、そうした変化のない、偏狭な思想体系の終わりの始まりだったと言えます。それによって、人間の歴史に現在の時代が始まったのです。それは、広がり続けるリーチのある知識を、持続的かつ急激に創造するという点では、他に類を見ない時代です。多くの人は、これをどこまで続けられるのか疑問に思いました。

それは、本質的に有限なのでしょうか。あるいは「無限の始まり」なのでしょうか。つまり、そうした方法には、さらなる知識創造のための無限の可能性があるのでしょうか。あるいはまた、説明という、脳のなかで生じる、見たところは取るに足らない物理的プロセスについて、宇宙的枠組みで何か重要なことがあるのでしょうか? 第3章でこの問題について考えますが、その前に第2章では理論と実在の関係について考えを述べます。

 

用語解説

説明(Explanation):そこにある事物と、その振る舞い、そしてその方法と理由に関する言明。

リーチ(Reach):説明がもつ、その説明が本来解こうとしていた問題を超えた問題を解ける能力。

創造力(Creativity):新しい説明をつくり出す能力。

経験論(Empiricism):われわれがあらゆる知識を感覚的経験から導出しているとする、誤った考え。

理論負荷性(Theory-laden):「ありのままの」経験などというものはない。この世界でのわれわれの経験はすべて、意識的および無意識的な解釈という層を通過してくる。

帰納主義(Inductivism):科学理論は、繰り返し得られる経験の一般化または外挿によって獲得されるのであり、ある理論が観測によって確かめられることが多いほど、その理論はより本当らしくなるとする、誤った考え。

帰納法(Induction):帰納主義における、存在しない「獲得」のプロセス。

帰納原理(Principle of induction):「未来は過去に似ている」というアイデアが、未来についてのあらゆることを主張するという誤った考え。

実在論(Realism):〔知覚できない〕物理的世界は現実に存在し、その世界についての知識も存在するという考え。

相対主義(Relativism):言明が真か偽かの判断は客観的に行うことはできず、文化的あるいは恣意的な基準との関連でのみ判断できるとする、誤った考え。

道具主義(Instrumentalism):科学は実在を記述することはできず、観測結果を予測するだけだとする、誤った考え。

正当化主義(Justificationism):知識は、何らかの権威筋または基準によって正当化されてはじめて、真正なもの、あるいは信頼できるものになりうるとする、誤った考え。

可謬主義(Fallibilism):権威ある知識の源はなく、また知識を真、あるいは確実らしいとして正当化する、信頼できる手段もないとする認識。

背景知識(Background klowledge):よく知られていて、現在は議論の余地のない知識。

経験則(Rule of thumb):純粋に予測的な理論(説明的内容がすべて背景知識からなる理論)

問題(Problem):問題は、複数の考えのあいだに矛盾が生じる場合に存在する。

良い説明/悪い説明(Good/bad explanation):説明対象とされるものの説明を続けながら、変更を加えるのが難しい/簡単な説明。

啓蒙運動(The Enlightenment):批判の伝統をもって知識を得ようとし、権威に頼る代わりに、良い説明を探求する方法(の始まり)。

小啓蒙運動(Mini-enlightenment):短命に終わった批判の伝統。

合理的(Rational):良い説明を探求することによって問題を解決しようと試みること。既存のアイデアと新しい提案の両方に対する批判を行うことによって、誤りを積極的に修正しようとすること。

西洋(The West):科学、理性、自由という啓蒙運動の価値観の周辺で育ってきた、政治、倫理、経済、知性の文化。

 

 

 

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書評

ドイチュの本は本当に要約するのが難しいと思います。一見、ここは削って良いかな?と思う箇所も、よく読むとユニークなことを言っており、それが全体の説明の一部になっています。要約を書くときはジェンガから恐る恐る引き抜くような気持ちになります。

 

さて、ドイチュは第1章『説明のリーチ』を通して、知識創造が開始された決定的要因は「良い説明」の探求であったと結論づけました。「良い説明」こそが啓蒙運動全体のキーであり、可謬主義や実験的テストや実在の基準も「良い説明の探究」から要請される帰結であると論じています。私たちが科学や哲学に出会う入り口には、かならず「問題(=相反するアイデアを経験する状況)」があるということも強調しています。経験論や正当化主義への批判、「批判の伝統」の重要性の指摘、問題の意味などの議論は、ポパーに丁寧に沿っています。

なお、2018年のインタビューにて、ドイチュは「知識(knowledge)」を「因果関係のある情報(information that has a causal power)」であると、定義を更新したと言います。この定義は、知識を、人間の意識の問題と切り離すだけでなく、明確に物理学的に定義していると言えると思います。

ドイチュの以上の明快な整理は知識論の前進だと考えますが、いかがしょうか。

その他

チメント(cimento)について。ガリレオ・ガリレイの弟子だったヴィンチェンゾ・ヴィヴィアーニ(Vincenzo Viviani)は1657年にアカデミア・デル・チメント(Accademia del Cimento)を設立しましたが、これは伝統的な論理を重視したアカデミアではなく、初の実験に基づいたアカデミアでした。当初はAccademia delee esperienzeと名付けられていましたが、1666年にAccademia del Cimentoへ改名しました。アカデミア・デル・チメントのモットーは"try and try again"(Provando e riprovando)でした。チメンターレ(cimentare)とは「金から24純金を作る」を意味する動詞だそうです。

https://www.facarospauls.com/apps/florence-art-and-culture/4269/cimento.jpg

Lorenzo Magalotti編"Essays of natural experiences made in the Accademia del Cimento"(Saggi di naturali esperienze fatte nell'Accademia del Cimento),1666 表紙

画像は https://www.facarospauls.com/apps/florence-art-and-culture/4269/accademia-del-cimento より

木本忠昭, シルヴァーナ・デ・マイオ ,「科学アカデミーの発祥」,学術の動向, 2007, 12 巻, 3号, p.78-84

 

デイヴィッド・ドイチュについて

前回記事ではデイヴィッド・ドイチュ(David Deutsch)著『無限の始まり』の全体の要約を試みました。

 

次回以降は各章の詳細に踏み込みますが、本記事では著者についてまとめます。量子コンピューターに興味のある方で彼の名前を知らない人はいないと思いますが、人文系ではあまり知られていないようです。最近ではスティーブン・ピンガーが著書『21世紀の啓蒙』で冒頭から『無限の始まり』を引用したこと、その前にはマーク・ザッカーバーグが必読書のリストとして同書を紹介したことで少し知られるようになったかもしれません。

 

量子コンピューターの発明者

デイヴィッド・ドイチュ(日本語ではデイヴィッド・ドイッチュとも表記例あり。2冊の主著書の邦訳書での表記に倣い、本ブログでは引用部分を除いてドイチュと表記します)は1953年イスラエルのハイファで生まれました。ロンドンのウィリアム・エリス・スクールを卒業、イギリスのケンブリッジ大学で数学科を卒業し、オクスフォードの大学院にて数理物理学を学びました。ジョン・ホイーラー(John Wheeler,1911-2008,「ブラックホール」の命名者であり、独創的な発想に富み、自由な雰囲気のラボを擁していたことが知られています)に誘われ、オクスフォード大学博士課程中にテキサス大へ移籍しました。数年後にはまたオクスフォードへ戻っていますが、どうやら普通の教授とは異なる生活スタイルを送っているようです。

彼の生活は, 普通の大学教授とはまるで違っている. 講義をせず, 試験もせず, 大学にほとんど足を踏み入れない代わり, 給料も貰っていない. 「職に就くと, やることを人に決められるので」, ずっとポスドクで通してきた. 数年前に一足飛びに教授になったが, 生活は今も変わらない. フェローシップと著作で生計を立て, 専ら自宅で研究三昧の日々を送っている.

(吉田彩「二人の悪魔と多数の宇宙—量子コンピューターの起源—」,日本物理学会誌/59 巻 (2004) 8 号)

ドイチュに直接取材した吉田氏は日経サイエンス誌の現編集長です。以下、吉田氏の解説を主に参考し、理論物理学者としてのドイチュについて紹介します。なお、用語についてですが、前回記事で邦訳書に倣い「普遍的」と訳していた'universal'は、本記事ではコンピューターサイエンスの慣習に従い一部「万能」と訳します。

ロイヤルソサエティーのドイチュの紹介文では、以下のように述べられています。 

デイヴィッド・ドイチュは、物理学の基本的な問題、特に計算と情報に関する量子論、および新領域のコンストラクター理論に取り組んでいます。1985年、彼は万能量子コンピューターのアイデアを提案する先駆的な論文を執筆し、その後、最初の量子アルゴリズムの発見を含む、この分野で最も重要な進歩をいくつも成し遂げました。 彼は量子論理ゲートや量子計算ネットワークの理論などの多くの理論面での成果と、量子万能性の基礎についてのいくつかの成果で知られています。これらの成果すべてが、量子計算におけるその後の国際的な研究活動のアジェンダを設定しました。

David Deutsch | Royal Society

上の紹介にもあるように、85年の論文は、量子コンピューターの具体的なアイデアの最初の提示でした。同論文のアブストを翻訳してみました。

"Quantum theory, the Church–Turing principle and the universal quantum computer"(「量子論、チャーチ・チューリングの原理、万能量子コンピューター」)

チャーチ・チューリング仮説の根底には暗黙の物理学的前提がある。本論文ではこの主張を物理的原理として以下のように明示する:「すべての有限内で実現可能な物理システムは、有限の手段で動作する万能計算機のモデルによって完全にシミュレートすることができる。」古典物理学万能チューリングマシンは、前者は連続的で後者は離散的であるため、少なくとも上記の強力な形では、この原理に従わない。チューリングマシンのクラスを量子一般化したモデル計算機のクラスについて述べ、量子論と「万能量子コンピュータ」が原理的に合致することを示す。万能量子コンピュータに類似した計算機は原理的に実現可能であり、チューリングマシンでは再現できない多くの注目すべき特性を持っている。これには非再帰関数の計算は含まれないが、特定の確率的なタスクを従来の限界よりも万能量子コンピューターで高速に実行する方法である「量子並列処理」を含む。これらの特性の直感的説明は、エヴェレットのもの以外の量子論のすべての解釈に耐えがたい負担をかける。計算の量子論古典物理学との多くの関係性のうちのいくつかについても検討する。量子複雑性理論は古典的な複雑性理論にくらべ、物理システムにおける「複雑性」や「知識」の物理的に合理的な定義を可能にする。

同論文でドイチュは、計算複雑性という情報過程を物理過程で基礎づけました。そのなかで計算可能性理論の中心的な原理だった「チャーチ・チューリングのテーゼ」を量子論的に一般化しました。また、量子論の解釈についてはエヴェレット解釈以外の解釈をとるのは難しいと言及しています。(ちなみに、エヴェレット解釈は一般には「多世界解釈」と呼ばれており、ドイチュはこの呼称を「やや不適切」だと言います。宇宙が多数あるというだけの話ではないからです。)この論文に至る経緯は60年代に遡ります。

 

量子コンピューターは情報理論、物理学、計算理論の統合過程のなか、量子力学解釈問題のテスト実験のアイデアをもとに生まれた

情報理論と物理学、および計算理論の統合の歴史がありました。IBM研究所のロルフ・ランダウアー(Rolf Landauer,1927-1999)は"Information is Physical"というスローガンを掲げ、同研究所のチャールズ・ベネット(Charles Bennett,1943-)とともに熱力学的な物理過程と計算過程を統合しました。1961年、彼はメモリのリセットを含む計算過程はエントロピーの減少を必ず伴い、したがって発熱することを示しました。ベネットはランダウアーの研究を押し進め、メモリ消去や非可逆のゲート操作を行わない可逆コンピューターであれば発熱なしに実行できることを示しました。

一方、テキサスのホイーラーは"It from Bit"のスローガンを掲げ、量子力学情報理論により基礎付けようとしていました。これはランダウアーやベネットとは真逆の発想です。情報理論から物理学を導こうとするホイーラーの考え方は、ドイチュにとって「無から有を作り出そうとするようなもの」に見えました。ドイチュは量子力学における観測の役割を非常に重視していた師とは逆に、観測の特別な役割を排除する「エヴェレット解釈」に傾倒しました。そして、エヴェレット解釈とコペンハーゲン解釈で測定結果に違いが起こるような実験テストを考案します。量子のスピンを重ね合わせ、これをロボットが観測した上で、観測した事実以外結果を忘れ、測定装置を元の状態まで逆に辿る、最後に得られたスピンを改めて観測するというプロセスを繰り返すというものです。論文では「この実験は現在の技術では到底実現は不可能だが、見た目の印象ほど無理ではないかもしれない」と記し、この過程は論理的に同等な超伝導電流システムで置き換えられる可能性を指摘しました。

1981年5月6日〜8日にMITで開催された”Physics of Computation Conference”にて、ホイーラーを前に、リチャード・ファインマン(Richard Feynman,1918-1988) が「物理のコンピューター・シミュレーション」と題した講演を行いました。彼もまた計算と量子論の関係について興味を抱いていたようです。この講演は量子コンピューターのアイデアについて世界で初めて言及された瞬間であったと理解されています。講演は「結局、自然は古典力学的ではないから、古典的な解析はうまくいかないのである。もし自然をシミュレートしたいのなら、量子力学的にやる必要がある」と締め括られました。

ホイーラーはテキサスで同じテーマのセミナーを開きました。ドイチュはこのセミナー後の懇親会のベネットとの会話の中で、計算は純粋な数学的な過程なのではなく物理的な過程なのだと理解します。彼はすぐに、計算の基本モデルであるチューリングマシン量子力学を使って拡張する仕事に取り組みました。念頭には解釈問題を検証する超伝導電流のロボットがありました。数ヶ月後、量子版チューリングマシンが従来のチューリングマシンとは本質的に異なる計算を行う道具であることを示しました。

ドイチュによる量子コンピューターの動作原理の説明を少し詳しく紹介します。その計算の過程は、ドイチュに言わせれば「並行して存在する無数の宇宙にある同計算機との共同作業」です。エンタングルメントした粒子は、並行宇宙間の通信路として機能し、情報を共有し、結果を収集します。量子コンピューターはいくつもの並行宇宙へと差異を発生させ(重ね合わせの発生)、それぞれの宇宙で異なる入力に対し別々の計算を実行します。その結果は違いに影響を与え、最終的にすべての並行宇宙での計算結果に貢献し合います。この計算が実現可能である事実は、他の無数の並行宇宙が「潜在的な可能性」ではなく、実存するというエヴェレット解釈を前提にしなければ直感的に理解できないはずです。エヴェレット解釈について、ドイチュは前著『世界の究極理論は存在するか』(1997年)で以下のように強く主張しています。

「量子因数分解エンジンが250桁の数を因数分解しているとき、干渉し合う宇宙の数は、10の500乗程度だろう。ショーアのアルゴリズム因数分解を処理容易にしているのが、このめまいの起きそうな大きな数なのである(…)単一宇宙観にいまだにしがみついている人たちに、私は次の難問を突きつける。ショーアのアルゴリズムがどう動くかを説明せよ。私が求めているのは、それがうまくいくと予測することではない。それは議論を引き起こさない方程式をいくつか解くことにすぎない。求めているのは、説明を提出することである。ショーアのアルゴリズムが、現に見えているものの10の500乗倍のコンピュータ資源を用いてひとつの数を因数分解したとき、因数分解はどこで行われていたのか? 見える宇宙全体にはほぼ10の80乗個の原子しかないが、これは10の500乗にくらべればごく小さい。だから、もし見える宇宙のみが物理的実在だとすれば、物理的実在は、このような大きな数を因数分解するのに必要な資源を含むには全然足りないことになる。だとすれば、それを因数分解しているのはだれなのか? 計算はどのようにして、そしてどこでなされたのか?」

話を戻しましょう。量子コンピュータの原理に関する証明を仕上げたドイチュは、ホイーラーの紹介でファインマンを訪れます。ファインマンはすでに癌を患っていましたが、ドイチュが黒板に証明の最初の部分を書いたところ椅子から勢いよく立ち上がりチョークをつかみ、証明を仕上げてドイチュを驚かせたそうです。

その後リチャード・ジョサ(Richard Jozsa,1953-)との研究で、量子コンピューターが古典的コンピューターよりも計算を高速化できることが突き止められました。1994年には、ピーター・ショア(Peter Shor,1959- 先ほどの引用ではショーアと表記)によって量子コンピューターを使った因数分解を効率的に行うアルゴリズムが発見されたことで、RSA暗号の堅牢性を脅かす可能性という文脈で量子コンピューターは一気に注目されるようになります。1999年、NEC基礎研究所の中村泰信らが超伝導量子ビットの開発に成功しました。2019年、Google超伝導量子コンピューターは量子超越性を実証しました。

ドイチュは量子コンピュータについての功績を幾度も称えられています。1998年、ドイチュはポール・ディラック賞を受賞しました。2017年、ベネットとショアと共にICTPディラック賞を受賞しました。2021年11月、IOP(英国物理学会) アイザック・ニュートン・メダル賞を受賞しました。

  

統一理論は「コンストラクター理論」へ

物理学者ドイチュの量子コンピューターの発明者としての経緯は以上のようになります。しかし、彼は量子コンピューターを作ることには興味はありません。彼の大きな関心はより深い自然の理解、「説明」にあるようです。そしてドイチュの考えでは、理論物理学者の多くが自然の究極の説明になると目し、憧れる、四つの力の「大統一理論」でさえ、世界の統一理論 としては「偏狭」だといいます。彼の提唱している統一理論については「コンストラクター理論」があり、2012年に最初の論文が発表されています。日本語の詳細な解説や、日本人研究者によるこれを引用した論文はまだないようで、2020年11月現在、コンストラクター理論の日本語情報は、一部ブログと、共著書での他者紹介で単語として取り上げられているのみです。コンストラクター理論の説明のリーチはきわめて多分野にわたるはずですが、わかりやすいところでは、その決定論的過程からボルンの法則を導出すると主張している点が挙げられます。また、同理論は「どんな現象が禁止されているか」 という新しい「 説明モード」を提供します。これは従来の物理学での予測を中心とした説明とは異なるとのことです。遺伝子情報も含めた情報理論コンストラクター理論の根幹をなしており、ネオダーウィニズムを他の前提を必要とせず導出できるようです。『無限の始まり』はコンストラクター理論の最初の論文を仕上げている時期に執筆されています。自分はコンストラクター理論については概要的にも理解が追いついていません。ドイチュと、共同研究者キアラ・マルレット(Chiara Marletto)による解説記事や、二人へのインタビュー動画がありますので、別の記事にまとめられたらと思っています。また、2021年の早ければ春にも、キアラ・マルレットらによるコンストラクター理論についての最初の解説書が出版されるとの話があります。(2021年3月追記: 2021年5月に刊行予定とアナウンスされています。タイトルは"The Science of Can and Can't: A Physicist's Journey through the Land of Counterfactuals")(2021年5月26日追記:自分の手元には既に届きました。各章で小話が挿入されるなど、工夫の凝らされた、読むための本です。)

 

デイヴィッド・ドイチュを際立たせる三つの規律

ドイチュを際立たせているのは、まず一つに、量子論、進化論、認識論、計算機論など、それぞれ十分に豊かな体系である基本的な科学分野をすべて無矛盾に統一するという強い意志を持っていることでしょう。前著『世界の究極理論は存在するか』はまさにそれを試みています。さらに、『無限の始まり』では政治、道徳といった、一般に社会科学と見なされている分野や、芸術という科学の反対とみなされてる分野に議論を広げています。そしてコンストラクター理論は、彼が「撚り糸」とよぶ、統一理論に欠かせない重要な要素であるはずです。

二つめに、彼が彼自身を哲学者であるとは自称していないことです。ドイチュのこうしたあり方はカール・ポパー(Karl Raimund Popper,1902-1994)と重なります。ポパーは、職業哲学者などいないと断じています。また著書『科学的発見の論理』の1958年の英語版への序文で「すべての科学は宇宙論だと私は信じるものであり、私にとって科学ならびに哲学への関心は、ひとえにそれらが、宇宙論のなした貢献にある」と断言しています。ポパーによる科学と非科学の境界基準は宇宙論に限らず事実上すべての科学者に受け入れられています。そして、『科学的発見の論理』などでのポパーの議論は、実在は無矛盾であることを要請しています。宇宙論という最大スケールから社会科学まで科学の方法に違いは無く、また実在は無矛盾であるというポパー哲学はドイチュに引き継がれていると言えるでしょう。誰よりも強力な科学哲学を確立したポパーは、20世紀中盤に流行りだした哲学の不毛な潮流のなか、その界隈で悪役のような立場に追いやられました。ドイチュは真理に迫る試みを積極的に阻むような哲学を「悪い哲学」と呼び、2冊の著書を通じて強く批判していますが、ここでもポパーへの敬意を感じとることができます。ポパーの議論を理解し、哲学者を自称しない本物の哲学者は、あくまで科学の言葉で語るのだと思います。議論のための議論をすることはありません。自身の意図が正確に伝わることを求めるため、必要以上に難解な文体で書くこともありません。こうした意味での哲学者は、他に自分の知るかぎり、故フリードリッヒ・フォン・ハイエク(Friedrich August von Hayek, 1889-1992)とニコラス・タレブ(Nassim Nicholas Taleb, 1960-)の2人がいます。なおドイチュは自身の紹介ページで、尊敬する人物としてマイケル・ファラデー(Michael Faraday,1791-1867)とファインマンの2人の物理学者のほかに、ポパーとウィリアム・ゴッドウィン(William Godwin,1756-1836)を挙げています。ドイチュの議論は社会哲学に及びますが、その議論の価値はポパー哲学と同じく時間が経ってもあせることのないものでしょう。

三つめに、プリンシプルを徹底していることです。ピンガーは『21世紀の啓蒙』で、人間の不死は実現不可能だと述べています。ポパーはジョン・エクルズ(John Carew Eccles,1903-1977)との対話(『自我と脳』におさめられています)で、コンピューターが意識を宿すことはないと述べています。哲学的に重要な点でのこうした無用心な断定をドイチュが下している箇所を、自分は発見できていません。また、熱力学第二法則やボルンの法則のように、全員に当たり前に思われている自然原理でさえ、自明ではなくさらに深い根本原理があるはずだと断じ、実際に先述したようにコンストラクター理論の形で提唱しています。「万物の理論」というジャンルがあるとして、ドイチュよりも包括的な議論を自分は知りません。

最後に、早川書房世界はなぜ「ある」のか』第7章より、ドイチュの人柄と哲学的基本スタンスの一面がうかがえる、科学哲学分野の作家ジム・ホルト氏によるインタビューの様子を紹介してこの記事を終わります。「世界はなぜ『ない』のではなく『ある』のか」という問いをドイチュに投げかけるインタビューです。続きが気になった方はぜひ本書を手に取って読んでいただければと思います。

 ドイッチュが教えてくれた住所に着くと、葉の生い茂る何本かの木の背後に、小さな二階建ての家があるのが見えた。家の前には、三枚の国旗がぶらさがっていた。イギリス、イスラエル、そしてアメリカだ。おんぼろのテレビが外に置いてあった。玄関のベルを鳴らそうとしたが、鳴らなかった。そこで、さざ波模様のフロントガラスをたたいた。

 少ししてから、嘘のようにあどけなく見える男性がドアを開いた。モグラのような大きな目、やや透明感のある肌、肩まで伸ばした白髪の持ち主だ。男性の背後には、いくつもの崩れかかった書類の山やら、壊れたテニスラケットやらといった、雑多ながらくたが見えた。ある科学ジャーナリストが語ったように、ドイッチュが「だらしなさの国際基準を設定している」ことで有名なのは知っていたが、その眺めは、むしろ屋内堆肥化の実験のように見えた。

 ドイッチュは家に入るよう合図してくれ、がらくたの山を抜けて、大型テレビとエアロバイクが置いてある部屋に案内してくれた。ソファーには、ほとんどティーンエイジャーかと思うような、赤みがかった金髪の若い美人が座っており、マカロニチーズを食べていた。ドイッチュは彼女に「ルーリー」と呼びかけた。ルーリーはソファーで少しずれて、場所を空けてくれた。やる気をそがれるような雰囲気だったが、こうして会話が始まった。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのかという問いについては、例のジョーク以外に何か知っているかどうか、よくわかりませんね」と、ドイチュは話し始めた。「どんなジョークだったかな? ああ、これだ。『たとえ何もないとしても、きみは依然として文句を言うだろうよ!』」 

 私は彼に、そのジョークは、数年前に亡くなったアメリカの哲学者シドニー・モルゲンベッサーに由来するものだと伝えた。

「その人のことは、聞いたことがないですね」と、ドイッチュは答えた。

 それにしても、なぜドイッチュは、存在の謎をそれほどぞんざいに扱えるのだろう? どのみち彼は、世界がたったひとつだけだとは信じていなかった。なにせ現実についての彼の見方は、並行して存在する世界の巨大な集合体からなるくらいなのだから。ドイッチュにとっての多宇宙は(…)私たちの周囲で観測されること、なかでも不思議な量子力学現象を説明するための最も単純な仮説だったのだ。あなたが、お考えのように、多宇宙を支配する物理法則がみずからのわかりやすさを要請するならば、それらの法則は、現実全体のわかりやすさも要請するのではないでしょうか?

「現実の究極的な説明なんてないと思いますよ」と、彼は首を横に振りながら言った。「べつに、われわれが説明できることに限界があると、私が考えているというわけではありません。われわれが、『この先、説明なし』と書いてあるレンガの壁に突き当たることはないでしょう。そうかといって、『これがすべてのものに対する究極の説明である』と書いてあるレンガの壁が見つかるとも思いません。実際のところ、このふたつのレンガの壁は、ほとんど一緒なんでしょうね。もしも、『不可能ゆえに』、究極の説明が得られるとしたら、なぜそれが真の説明なのか—なぜ現実はこうなっていて、別のようにはなっていないのか—という哲学的な問題は、永遠に解明できないということになるでしょう。おや。お湯が湧いているぞ!」

 ドイッチュはキッチンに向かった。ルーリーは私ににっこりと笑いかけ、マカロニを食べ続けた。

 

 

参照

・David Deutsch Biography - The Royal Society https://royalsociety.org/people/david-deutsch-11329

・David Deutsch HOME http://www.daviddeutsch.org.uk

・D.Deutsch,"Quantum theory, the Church–Turing principle and the universal quantum computer",(Int. J. Theor. Phys. 24(1)(1985)1-41.)

Dirac Medallists 2017 https://www.ictp.it/about-ictp/prizes-awards/the-dirac-medal/the-medallists/dirac-medallists-2017.aspx

・"Physicists in China challenge Google’s ‘quantum advantage’",nature , 2020 Dec 3, https://www.nature.com/articles/d41586-020-03434-7

・デイヴィッド・ドイチュ著,林一訳,『世界の究極理論は存在するか』(朝日新聞社,1999)

 ・吉田彩,「二人の悪魔と多数の宇宙 : 量子コンピュータの起源」(日本物理学会誌,2004 年 59 巻 8 号 p. 512-519)

以下の本の第4章「量子を使った計算機」は吉田氏の取材をもとにしたドイチュの紹介から始まります。本書は量子論の歴史から量子アルゴリズムまで噛み砕いて説明しており、大変勉強になりました。

・竹内繁樹『量子コンピューター』ブルーバックス,2005)

「計算の物理」カンファレンスが開催された日付については以下の資料を参考しました。

http://www.wisdom.weizmann.ac.il/~naor/COURSE/feynman-simulating.pdf 

コンストラクター理論HP http://constructortheory.org/

・ジム・ホルト著,寺町朋子訳,『世界はなぜ「ある」のか』早川書房,2013)

以下の本でのドイチュの議論は『無限の始まり』と完全に整合です。AI、AGIについてより踏み込んだ論述を行なっています。日本語の書籍の中でコンストラクター理論という単語が出たのは本書が初めてだと思います。

・ジョン・ブロックマン編,日暮雅通訳,『ディープ・シンキング ―知のトップランナー25人が語るAIと人類の未来―』(青土社,2020)

ドイチュの家の様子は印象的らしく、訪問した人は必ずそこに言及しているように見えます。この記事は部屋の中の様子を特に詳しく書いています。量子コンピューターの解説も充実しています。

David Deutsch and His Dream Machine | The New Yorker

・ジョン・グリビン著,松浦俊輔訳,『シュレーディンガーの猫、量子コンピュータになる』(青土社,2014)

ジョン・グリビンの上の書籍では、ドイチュの生活について以下のように記述しています。

ドイッチュはオックスフォード郊外にある、ふつうの、むしろ手入れされていないように見える家で暮らしていて、そこを訪れると、玄関からコンピュータの画面だけが輝いている暗い仕事部屋まで行くには、本や書籍が積み上げられた中をかきわけて進むのを覚悟しなければならなかった。カーテンはほとんどいつも閉じられていて、ドイッチュは夜仕事をして、昼間(少し)眠る——昼食はふつう午後八時頃で、その後は十二時間、休みなく仕事をする。(…)同業者がドイッチュに会うのは、オックスフォードの「夢見る尖塔」に囲まれたところよりも、遠い国の国際学会でのことが多い。

RSA暗号量子コンピューターの歴史について解説した書籍では以下が読み物として面白いと思います。

・マーカス・デュ・ソートイ著,冨永星訳,『素数の音楽』(新潮社,2005)

多世界解釈の紹介本としてはドイチュの前著のほかに、最近出版されたこちらがわかりやすいです。

・ショーン・キャロル著, 塩原通緒訳,『量子力学の奥深くに隠されているもの: コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』青土社,2020)

ポパーの哲学を知るには自身の伝記がよくまとまっています。彼が亡命中に執筆した『歴史主義の貧困』『開かれた社会とその敵』はいずれも政治学の古典ですが、この2冊が書き上げられた経緯のくだりは涙なしでは読めません。

・カール・R. ポパー著,森博訳『果てしなき探求』岩波現代文庫,2004)

・2021年春にコンストラクター理論についての本が出るという話で始まるキアラへのインタビュー動画。

https://www.youtube.com/watch?v=B2SSJmE0TeM&feature=youtu.be

ドイチュの歯に衣着せぬ話し方は、伝記から読み取れるファインマンに通じるものがあります。ニールス・ボーアら第一級の権威を相手にまったく容赦なく議論を戦わせていた様子が記されています。

・リチャード P. ファインマン著,大貫昌子訳『ご冗談でしょう、ファインマンさん』岩波現代文庫,2000)

『無限の始まり』全体要約

デイヴィッド・ドイチュ『無限の始まり』は、日本語版で611ページの大著です。扱っているテーマの広さからAmazonレビューを見てもどうにも内容が掴みづらいと思います。本書がどのジャンルの本であるのかと考えると、人類学、科学哲学、文明論などがあたりますが、個人的には「啓蒙思想書」と呼ぶのがより正確だと思います。ドイチュは量子コンピューターの発明者である理論物理学者として有名ですが、自分は彼はただの物理学者の枠には収まらない本物の哲学者だと考えています。ドイチュについては以下の記事でまとめました。

デイヴィッド・ドイチュについて - 現代啓蒙

以下、かなり端折りながらになりますが、『無限の始まり』を要約します。

 

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本書の主張の一つは、進歩は「良い説明」によってなされる、というものです。そして、進歩は無限に続けることができます。この主張を科学と哲学における事実上すべての基本的分野を俯瞰することで検証します。

進歩は知識が増大することで可能となります。知識が何に由来するのかという問いは哲学において長らく議論されてきました。当初は「経験論」とよばれるアイデアが主流でした。経験論は伝統的権威を追放しましたが、その代わりに・帰納法などの「導出プロセス」と・感覚的経験 という二つの偽りの権威を生み出しました。帰納法は直感的ですが、説明を生むことはありません。どの感覚的経験が正当かを論じる哲学が「正当化主義」です。正当化主義の論理は、変化に対してアイデアを守る方法を探す傾向にあります。

正当化主義と逆の認識は、「可謬主義」とよばれます。可謬主義とは、権威ある知識の源という存在を否定し、アイデアが真であると正当化する手段が存在しないとする考え方です。可謬主義者は、自分たちの最善かつ基本的な説明にさえ、真実だけでなく、誤解が含まれていると考え、そうした説明を良い方向へ変えようと努力する傾向があります。この哲学を押し進めたのがカール・ポパーです。今はまだ問題だと考えられていないような誤ったアイデアを、将来発見して変えたいと考える論理は、限りない知識の成長に不可欠です。科学理論はあくまで推量にすぎません。推量は説明を伴います。悪い説明に対し、良い説明は一部分を取り出して変更することが難しい点で、客観的に区別がつきます。

ポパーを数少ない例外として、20世紀以降の知識論は混迷を続けてきました。経験論から発展し、目に見えるものしか理論に組み込むことを認めない実証主義は、さらに論理実証主義という流れに退行しました。言語哲学分析哲学からは、自然科学的真理や科学の営みですらナラティブにすぎないと考えるポストモダン哲学が生まれました。これらの哲学の潮流は別にしても、経験論の名残りはいまだに多くの科学者に残っています。

ドイチュによれば、ニールス・ボーアらによる観測問題の解釈「コペンハーゲン解釈」は、悪い哲学に則っています。現象の理由を説明せず、予測が合うからとその説明を省こうとする「道具主義」は、量子論に限らず心理学などさまざまな科学分野でいまだに見られると言います。悪い哲学とは、単に間違っているだけでなく、真理へ近づく試みを積極的に阻むような哲学です。

説明を省く科学理論には、「道具主義」の他にも「全体論」「還元主義」といったバリエーションがあります。全体論と還元主義はいずれも、特に後者は現在も根強い支持のある科学哲学観です。

物事にはさまざまな「創発性のレベル」が存在します。私たちはヤカンの中の水分子の個別の振る舞いを計算することなく、沸騰するまでの正確な時間を計算できます。あるいは、人類の歴史を振り返って抽象的な用語を用いてそれを説明することなくして、ある銅原子がその銅像を構成している理由を説明できません。このように、より上位の創発性レベルで事象を簡単に説明できるようになることが「創発性」です。この創発性の法則は、いまだ解明されていません。最も上位の全体的創発性レベルですべてが説明できると考える全体論や、要素還元を繰り返すことで真理へ到達できると考える還元主義は間違っており、物事のあらゆる創発性レベルは基本的で最善な説明になり得ます。抽象概念は創発的なものですが、実在し、物理世界に影響を与えます。

人間の「創造力」は、脳内で起こる創発的な現象です。この原理は未解明ですが、人間の創造力と、その宇宙的意義を認めないと、人類の意味や進歩が起こることの説明に大きな間違いを冒します。その間違いを冒している人として、スティーブン・ホーキングやジャレド・ダイヤモンドなどが挙げられます。

人工知能研究は数十年間にわたり行き詰まっています。これは創造力が未解決問題であることを無視した結果と言えます。チャットボットを人工知能の定義に使おうとしたチューリングテストは、ドイチュに言わせれば道具主義ということになります。逆に、人間の創造力の原理が解明されさえすれば、明日にでもそれをプログラムすることができます。人間の脳と古典的コンピューターは同等だからです。

本物の人工知能は、人間と同じく、普遍的な説明能力を獲得するはずです。ドイチュは人間を「ユニバーサル・エクスプレイナー(普遍的な説明者)」であり、自然法則で制約されていない限りあらゆる物理的変成が可能な「ユニバーサル・コンストラクター(普遍的な建設者)」であるといいます。知識の増大によって可能になったその文明の物理的変成のレパートリーを「富」といいます。かつて多数の文明が自然や外敵に滅ぼされましたが、それは例外なく富が足りないことが原因でした。資源管理に失敗したためにイースター文明が滅んだという通説は間違いです。彼らに足りなかったのは資源管理ではなく富です。ジャレド・ダイヤモンドは、西洋文明が成功した理由の説明を地理的要因に求めますが、この還元主義的説明も間違っています。

抽象概念であっても、客観的な進歩があります。道徳的説明も客観的であり、かつては疑われない常識であった、「黒人は軍隊の中で出世できなくて良い」「女性はその能力を使うべきではない」といった価値観は現在の西洋文明では間違いだと見なされています。政治哲学も同様です。長い間、政治哲学の中心テーマは「誰が統治すべきか」というものでした。ここでは、良い政策は良い為政者から生まれると仮定されています。しかしこれは説明にはなりえません。社会選択理論では政策を選ぶ国民の投票行動を「意思決定」としていましたが、その意味で合理的な選択は不可能であることはケネス・アローが半世紀以上前に証明しています。論理的に不可能なことを要求することを強いられているのは、その前提が不合理であることを示しています。社会選択理論は、理論が想定する「意思決定」を、現実の意思決定のプロセスと取り違えています。選挙で大事なことの一つは、存在しない「市民の意思」を測ることではなく、政策についての良い説明を生み出すことです。一般に、二つの良い説明の中間をとると、それぞれよりも悪いものが出来上がります。比例代表制では、そうした政策を生み出す悪いインセンティブが働きます。また、選挙は失敗したリーダーを非暴力的手段で排除する仕組みとして働きます。すなわち、民主主義制度は可謬主義に根ざしています。

「美」も、一般に客観的であるとは見なされていません。しかし、名曲や名画が生み出されるとき、芸術家の脳内では創造的なプロセスが働いており、実際に世界に何かを付け加えています。美は人間の創造力とは別に、生物進化のプロセスでも生み出されます。花がその代表です。花は虫と共進化をしてきましたが、その過程で離れた種族間で利用する偽造されにくい暗号パターンとして、「客観的な美」という基準を用いたのです。人間はその遺伝情報量とは比較にならない大量の情報を一個人でも扱うため、花や虫と同様に、個人間の情報交換でも客観的な美の基準を用います。ユニバーサル・エクスプレイナーである私たちは美それ自体を目的として生み出す営みも行います。これは科学と同様、自然界には存在しない知識創造のプロセスです。さらに、人間の美の選択基準は性選択にも適用されているでしょうから、人間は進化の過程でサルから客観的な美の基準へ向かって進化しつつある、という愉快な推論ができます。

数、文字、計算機といったものが普遍性を獲得したのは、偶然でした。ドイチュはこれを「普遍性への飛躍」とよびます。これらはそれぞれ、最初は偏狭な目的で作られました。数は古代ギリシャにおいて、現実のものを対応させ、数える目的を脱しなかったようです。0という仕組みを導入したことで、数は普遍性を獲得しました。象形文字は、そのリストの中でしか意味を当てはめられません。当初は象形文字を補助する表記法として発達したアルファベットは、次第にそれのみであらゆる文章を表記するようになりました。アルファベットは潜在的にあらゆる単語を表記する普遍性を持っています。アルファベットの発明は人類史でフェニキア人祖先による一度のみ起こりました。計算機は、バベッジが解析機関を作り出した時点で、普遍性を獲得していてもおかしくなかったはずです。彼がきちんと周りを見渡せば、すでに継電器という完璧なものがあり、普遍的なデジタルコンピューターを作れたはずでした。潜在的に長さ制限のないシステムには誤差修正が不可欠なので、普遍性への飛躍はすべてデジタル・システムで起こります。基本音声の数が有限であることや、普遍的アナログ・コンピューターが存在しないのはこれが理由です。

数や文字などは、自己複製子「ミーム」です。ミームは目には見えませんが、確かに実在しています。ミームは文化の最小単位でもあるアイデアであり、大半のミームは短命です。

生物の進化のプロセスと、脳内での知識の成長には、後者には「説明」があるという大きな相違点があります。ミームと生物進化においても、その伝達・変異・選択メカニズムは異なります。ミームは遺伝子と異なり、行動を起こさせることによって初めて人に伝わり自己を複製します。ミームの創造は創造的なプロセスで行われます。スーザン・ブラックモアのミーム論は人間の創造力を軽視していたために、文明の進歩もミームの自然選択的な進化の結果だと考えていました。また、従来のミーム論は、「合理的なミーム」と「非合理的なミーム」の違いを理解していませんでした。

人特有のミームの伝達方法があります。オウムは聞いた音を正確に反復しますが、その話の内容は理解できません。人間は講義の教授の話をそっくり反復することはできませんが、その内容を理解することができます。人は「模倣」でミームを伝達しているのではありません。事象から創造的に説明を見抜くことでミームを複製します。

私たちの文明の歴史は、一人一人の創造力が生み出したアイデアの歴史です。しかし、その創造力が発揮されてきたのはかなり最近のことです。各自がその創造力により少しでも改善を行っていれば、指数関数的な発展が始まったはずです。実際には、100万年間、人類は洞穴で生活し、農耕を初めてから1万年以上もほとんど変わりばえのない生活を続けてきました。

この謎を解く鍵は「非合理的なミーム」です。ミームは(遺伝子と同じく)宿主やその種に有利に働くとは限りません。幸せを増大するとも限りません。そのミームが多くの人へ正しく複製され、競合ミームを排除するという選択圧があるのみです。

人々の創造力は、ミームにとっては複製プロセスに欠かせないものでもあると同時に、危ういものでもあります。創造力で改変されてしまうため、ミームが正しく複製されない可能性があるからです。

人類史の大半の期間、人類に広がっていたのは非合理的なミームでした。

非合理的なミームは、人々の創造力を機能停止させます。人々は、自分が存在しているのはそのミームを複製するためであると思い込みます。革新は許容されません。人々には知識を生み出す方法も批判能力もないので、変化は往々にして良くないものです。すなわち、皮肉にも創造力を発揮せず変化を起こさないことは理にかなっています。こうした社会は、生まれた時から死ぬまで、何の変化も起きない社会です。これをドイチュは「静的社会」とよび、反対に、現在の私たちの西洋文明を「動的社会」とよびます。

静的社会での性選択においては、非合理的ミームを忠実に実行できるかどうかが重要な基準になります。非合理的ミームを、たとえば集団内の社会的地位の高い相手から見抜く目的で、人類はその創造力を発達させてきました。このミームと創造力の共進化は、言語操作に特化した脳構造の発達や、記憶力の向上などを伴ったものでした。

ミームの選択圧の上で、真理であるというのは複製されるのに有利な面もあります。橋を建てたり砲弾を飛ばしたりなど、さまざまなことに便利に使えるとしたら、正しいニュートン力学は人々に広がるでしょう。こうした合理的なミームは、深遠なる真理に近づきます。合理的なミームは動的社会において発達します。そして、非合理的ミームと合理的ミームは互いにそれを排除しようとします。

人類が非合理的ミームの支配する社会から、合理的ミーム支配へ移行しようとした時期が、歴史上、何度かありました。アリストテレスのいたアテナイはスパルタの侵略により進歩の芽が摘まれました。中世フィレンツェの啓蒙運動はキリスト教勢力によって排除されました。現代の西洋文明の進歩は、歴史上初めて、継続的に何世代にもわたって起きています。この波はガリレオで始まり、ニュートンで後戻りできなくなりました。

合理的ミームが完全に支配的になったとは言い切れません。世界にはいまだに「この進歩は本物ではない」とする思想家が大勢います。また大半の人がその自分の認識とは異なり、普遍性に不要な制約を加える「偏狭思考」から脱していません。これもやはり経験論の名残りです。このような中では、またいつか「悲観主義」が蔓延することになるかもしれません。

「楽観主義」と「悲観主義」という区別は、「コップ1杯の水を『たった半分しかない』と考えるか『半分も入っている』と考えるか」といった感情論の意味合いで理解されがちです。しかし、ドイチュの言う楽観主義/悲観主義の定義は、そうした感情論とは無関係です。この違いは、将来の物事へどう備えるべきかという認識論の問題です。

この違いについて「持続可能性(sustainable)」の意味を検討し明らかにします。「維持(sustain)」には二つの相反する意味があります。・人の必要を満たす と、・物事の変化を妨げる という意味です。

イースター文明は、せっせと巨大な石像を作り出す文明を維持して、滅びました。今ではイースター島の最盛期の人口密度を超える地域は多数あります。人々が知識を生み出し、富を生み出すことによってのみ、文明は維持されてきたわけです。

悲観主義にもとづく行動指針は、予防原則として知られています。例えば、CO2を排出していたら地球温暖化が進むのでCO2の排出を減らすため生活水準を落とすべきだ、という発想が当てはまります。しかし、仮に予想と反して来年から地球が寒冷化したらどうするのでしょうか。自然由来だから対処する必要がない、という考え方は偏狭です。私たちは常に予測可能性の地平の向こうに思考を巡らせ、技術開発を行い、テクノロジーを発達させなければなりません。パンデミック、隕石衝突、ガンマ線バースト、太陽の赤色巨星化なども克服していく必要があります(注:本書原書は2011年,邦訳は2013年)。人類は宇宙的枠組みで重要です。スティーブン・ホーキングの説く、⼈間は「典型的な銀河の外縁部にある、平均的な恒星を回る中規模の惑星の上に⽣じた化学物質の浮きカスに過ぎない」という認識は間違っています。数十億年後の太陽の色は、人間の選択次第です。

 

ドイチュは楽観主義の原理を以下のように提示します。

【いかなる悪も知識が不十分なために生じる】

 

また、 すべての物理的変換現象は

自然法則によって禁じられているために不可能である

あるいは

・適切な知識があれば達成可能である

のどちらかであるはずです。そして、より深い説明は新たな問題を提示します。すなわち、そこから以下の二つの原理が示されます。

 

・問題は避けられない

・問題は解決できる

  

ドイチュに言わせれば、イギリス啓蒙思想はこの二つを理解していたのに対し、ヨーロッパの啓蒙思想は後者を理解し前者を理解できていませんでした。理想郷を目指して恐怖政治に陥った急進派を生み出したのはこの誤りが原因です。

物理法則で禁じられているものの中には、並行宇宙間での情報通信、一部の数学証明問題の証明、将来のテクノロジーや重大変化の予測、などがあります。物理法則で禁じられていることがあることは、無限の進歩を阻害する要因ではなく、必要条件です。

人間の死は悪であり、物理法則では不死は禁じられておらず、したがって解決可能です。これができないと考えるのは偏狭思考です。コンピューターが意識をもつことも同様に、実現可能です。道徳的価値基準を含め、私たちは無限に進歩することができるのです。